2013-08-02

子どものみずみずしい心を育む~シュタイナー教育の例 前編

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子どもの心の教育について、ルドルフ・シュタイナーの「人間理解からの教育」より、「子どものみずみずしい心を育む方法について紹介します。
 
ルドルフ・シュタイナーは、オーストリア帝国(現在のクロアチア)出身の神秘思想家、哲学博士。シュタイナーの関連ジャンルは幅広く、芸術、自然科学、哲学、教育、建築、音楽と多岐に渡ることも有名です。シュタイナーは人間の存在を身体(肉体=エーテル体)、心魂(ソウル:感受・情動)、精神(個我)に分析して考察する人智学(アントロポゾフィー)を創始した哲学者です
 
シュタイナー教育論は、人智学(アントロポゾフィー)に基づいたもので、1906年からヨーロッパ各地で「精神科学の観点からの子供の教育」について教え、最初のシュタイナー学校がドイツに設立されたのが1919年。
シュタイナー教育の特徴は、人間の一生全体を視野に入れ、子供の自然な成長に沿って、幼児期・学童期・青年期のそれぞれにふさわしい能力を伸ばそうとする教育です。
 
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        日本のシュタイナー学校
「教育(学)」という枠がまだ無かっただろう古来の子育てや躾などはこのようなものだったのでは?と想像させるものが見られます。
また、現代の教育と比較してみても、教育の原点は人と人のふれあいであることや、心と現実を繋げること、感謝の心についても考えることができ、子どものみずみずしい心 を育てる本体にも繋がりがありそうです。
前後編の2回に分けて紹介していきます
 

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  ルドルフ・シュタイナー 
 
19世紀およびそれ以前にも、多くの傑出した人々が教育について大切なことをなしとげてきたが、そこには本当の人間認識欠けていたといわなくてはなりません。15世紀以来、唯物論があらゆる領域を支配するようになっていますが、唯物論が支配する時代には、本当の人間認識が存在しません
そのような状態で教育について考えられてきたのです。そのために、教育改革についての考えが表明されても、それは砂上の楼閣のごとき、基盤のない構造物のようなものだったのです。
 
身体についての研究はたいへん進んでいるが、思考・感情・意志については、ただ言葉が語られるだけであって、実際にはなにもわかっていません。人間を「身体(ボディー)、心魂(ソウル)、精神(スピリット)」の三つからなるものとして正しく認識することが必要です。・今日の文明においては、人々は人間認識を有していません。人々は理論を持っていますが、世界についても人生についても人間についても、いきいきとした洞察をしていません。ほんとうに現実的な洞察は実践生活へと導くものですが、今日、人々は生活実践をおこなえないでいます。
 
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今日、もっとも非現実的な人とは、どんな人でしょうか?才気あふれる理論家がもっとも非現実的だということに、人々は気がついていません。商業・工業・銀行に携わっているいわゆる専門家がもっとも非現実的な人々なのです。彼らは理論によって実生活を支配しています。今日では、理論的思考から銀行がつくられています。そこには実際的なものがまったく存在しません。人々はそのことに気づかず、「専門家がそういうふうにやっているのだから、そうすべきなのにちがいない」と、いいます。そのことによってどのような害が人生におよんでいるかに、人々は気づいていません。専門家のやっていることは、まったく非現実的なことなのです。あらゆる分野において、実生活がまったく非現実的なものになっているのです。
 
しだいに破壊的な要素が文明のなかに入ってきて、文明を解体するようになると、はじめて人々はそのことに気づくでしょう。もし、いまの状態がつづくなら、世界大戦は崩壊のはじまりにすぎなかったことになります。世界大戦は実際、そのような非実際性から生じたのです。世界大戦は、文明の崩壊のはじまりに過ぎません。ですから人類は、意識をさらに眠らせつづけないことが大切です。とくに教育の分野では、眠り続けていると取り返しのつかないことになってしまいます。(身体・心魂・精神)からなる人間の全体像を考慮した教育を受け入れることがほんとうに大切です。そのために、まず人間の身体・心魂・精神を真に認識することが重要です。
 
生まれてから7歳まで、子供は一個の目です。子供の近くで、誰かが怒りを爆発させたとします。誰かが怒り狂うと、子供は内面にその怒りの爆発の像を有することになります。エーテル体(生命体、系勢力体)が像を作ります。その像から血液循環全体及び血管新陳代謝全体のなかに、怒りの爆発に類したものが移行していきます。生まれてから7歳まではそのように身体が整えられています。
 
子どもが怒りっぽい父親や家庭教師のそばで育ったら、血管が怒りに合わせられたものになります。そのような性向が植え付けられ、その性向は一生のあいだとどまります。 
 
これがこどもにおいてもっとも重要なことです。教師が子どもに語り、子どもに教える内容は、子どもにまだなんの印象も与えません。教師が語る言葉を真似することをとおして、子どもは印象をもちます。大人がどのようであるか、善良で、その善良さが身振りに現れているか、あるいは不道徳で癇癪(かんしゃく)持ちであって、それが身振りに現れているか、つまり大人がおこなうことすべてがこどもの内面で継続されるのです。これが本質的なことです。
 
子どもはまったく一個の感覚器官であり、自分のなかに呼び出された印象すべてに反応します。
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ですから、子どもはなにが良くてなにが悪いかを学べるであろうと思うのではなく、「わたしが子どもの近くでおこなうすべてが、子どもの精神・心魂・身体に変化していくのだ」と知ることが大切なのです。大人が子どもの近くでどのように振る舞うかによって、その子の一生の健康が左右されます。子どもが発展させる性向は、大人が子どものそばでどのように振る舞ったかにかかっているのです。
 
子どもにはこのようにすべきだと、ふつう幼稚園で薦められることはすべて、なんの役にも立ちません。19世紀に幼稚園のために考案されたものは、まったく聡明なものです。 
園児はたくさんのことを学び、本を読むことすら習います。文字を並べて、遊びながら学習するのです。そのようなことはすべて恐ろしく聡明なことに思われます。そして、そのようなことが子どもにとって役立つのだ、と思われています。実際は、なんの役にも立ちません。そのようなことをすることによって、子どもの心魂全体が台なしになります。身体にいたるまで、健康にいたるまで、子どもは台なしにされます。後年における身体と心魂の虚弱さは、そのような幼稚園に教室で作られるのです。
 
それとは反対に、子どもを幼稚園に迎え入れ、教師の振る舞いを園児が模倣するようにさせることができます。教師はさまざまなことをおこない、子どもは生まれる前に慣れていたように、自らの模倣運動によって真似をします。そうすると、園児が教師に似てくることになりますが、園児が教師に似るかどうかは教師次第です。
これが生まれてから7歳までの子どもについて、心に留めておくべきことです。単なる言葉や外面や道徳観として考察されるべきものではありません。ですから教師は、幼児にとって、人間考察と人間生活の一部になるこが必要です。どのようなことを教えるかは、まったくどうでもいいことです。教師がどのような人間であるかが重要なのです。
 
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◆書き方の授業 
 
子どもは芸術的感覚、象徴的ファンタジーを生まれつき持っています。精神のこもった方法で、子どもに人類文化の発展を体験するよう試みなければなりません。形象から文字を取り出すことができ、形象を生活そのものから取り出すことができるのです。最初に読み方を教えるのではなく、まず絵を描くことからはじめて、そこから文字を発生させます。そして、それから読み方に移っていくのです。事物から出発すると、いたるところに子音に変化するものを見出すことができます。探せばいいのです。そうすれば、言葉のはじめの音をあらわす文字となるものを、いたるところに見出せます。母音に関しては、驚きや感動の身振り(音が形成されているオイミュトリー:体を動かすこと)から導き出すことができます。
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このように、想像、ファンタジーから活動するのです 。そうすると、子どもは次第に、事物から音、文字を習得していきます。わたしたちは、形象から出発しなければなりません。
 
今日の文明において使用されている文字には、歴史が秘められているのです。文字は像をかんたんにしたものであり、魔法のしるしのような今日の文字がかつては魔法であった事を人々は認識していません。ヨーロッパ人がアメリカに行き、印刷された文字をアメリカ原住民にみせたところ、彼らは逃げ出しました。アメリカ原住民は、それらの文字を小さな悪魔たちだと思ったのです。彼らは、「青白い顔をした者たちは小さな悪魔たちをとおして意志を疎通している」と、いいました。19世紀半ばまで、そのようなことがありました。
 
子どもたちにとっても、文字はそのようなものです。文字は子どもにはなにも意味しません。子どもは文字のなかに悪魔的なものを感じます。そう感じるのは正しいのです。文字は記号ですから、すでに魔法の道具になっています。
 
わたしたちは形象から出発しなければなりません。形象は魔法のしるしではなく、現実的なものであり、教師は現実的なものから活動しなければならないのです。人々は、「そうなると、子どもが読み書きを習うのが遅くなる」といいます。そのように言うのは、早期に読み方と書き方を学ぶことがいかに有害かを知らないからにすぎません。幼いころから字が書けるのは、非常に悪いことです。今日のような読み方・書き方はもっとあとになって、11歳・12歳で学ぶべきものです。それまでに読み方・書き方を学ぶことが少ないほど、後年のためによいのです。14歳・15歳でまだ正しく書けない子どもは、7・8歳で読み書きができる子どもよりも、のちの精神的発展が遅れるということはありません。わたし自身、14・15歳まのとき正しく書くことが出来ませんでした。このようなことを、教師は観察しなければなりません。
 
書き方、とくに絵から導き出された書き方においては、全身が活動します。指、身体の姿勢など、全身が活動します。読み方においては頭のみが関与します。身体のまず全身を活動させ、それから一部を活動させるものへと移っていくことが大切です。(書き方の授業を芸術的に形成して、絵を描くことから文字を導き出す。絵を描くことから字を書くことへと進み、字を読むことに移っていくのです。)
 
 
今回はここまでです。
次回は物語 の伝え方、植物学 、動物学 にふれて紹介していきます。
後編もお楽しみに

List    投稿者 yamatetu | 2013-08-02 | Posted in ④脳と適応No Comments » 

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