2021-05-10

ナスカの地上絵 ~文字を持たない人々が大地に創った情報ネットワーク~

南米ペルーの「ナスカの地上絵」については、様々な調査・研究が進められています。

141px-Nazca_monkeyナスカの地上絵(サル)リンク

『ナスカの地上絵(Wikipedia)』 では、概要を始め、地上絵の描画方法や目的についての諸説などが紹介されてます。中でも山形大学ナスカ研究所(ナスカ市)のAIを駆使した最先端の調査・研究成果が注目されます。

その研究によれば、地上絵の目的は「神殿に向かうための巡礼ルートを示すもの」だったとのことです。紀元前200年頃から西暦800年頃のナスカは文字のない農耕社会を築き上げていて、文字を持たないナスカの人々は壮大な地上絵を描いて情報伝達の媒体にした のではないかとの説が提示されています。

ナスカの地上絵は「文字を持たない人々が大地に創った情報ネットワーク」だったのかもしれません。

350px-Nazca_colibri地上絵の航空写真(ハチドリ、一筆書きに注意)リンク

東洋経済online(2021/03/03)山形大学坂井正人教授のインタビュー記事 より、以下一部引用。

実は山形が最先端「ナスカの地上絵」研究の凄み

~AIも駆使して人や動物を描いた143点を新発見~

南米ペルーの「ナスカの地上絵」はどうやってつくられたのだろうか。誰がどんな目的で描いたのだろうか。世界中の古代史ファンらをひきつける地上絵。その謎に挑み続けている山形大学ナスカ研究所は、巨大な地上絵への立ち入り調査を世界で唯一認められている研究機関だ。その貢献がなければ、地上絵の謎は明らかになっていなかったかもしれない。

(中略)

――地上絵の目的は何だったのでしょうか。門外漢はすぐ、「宇宙人」とか「謎の古代文明」とか、そういったものをイメージしがちですが。

動物の地上絵は、ナスカ台地を移動する際の目印だったと考えています。

動物の地上絵は「線タイプ」と「面タイプ」の2種類に分けられます。線タイプは、絵のサイズが大きく、ハチドリやサルなどの有名な地上絵が含まれます。これらは、細い線で描かれており、多くは一筆書きです。

もう1つの面タイプは、白い面と黒い面を組み合わせた地上絵です。50メートル以下といった小さいものが多く、5メートル以下の非常に小さな地上絵も存在します。面が描かれたのは紀元前100から紀元100年頃のこと。大型の地上絵よりも、さらに古い時代に制作されたのではないでしょうか。

神殿に向かうための巡礼ルートだった

線タイプの地上絵の近くには、直線の地上絵が存在します。これら直線の地上絵はネットワークを形成しているんです。それを、山形大学に所属する情報科学の専門家が明らかにしました。ネットワークはナスカ台地に広がっていまして、台地の南谷と北谷を結びつけています。

考古学の観点からこのネットワークを再検討したところ、興味深いことが分かりました。両谷のネットワークの出発点には、神殿などの聖的な空間が広がっているんです。つまり、線に沿って移動すると、別の谷の神殿に行くことができました。こうしたことから、直線の地上絵は神殿に向かうための巡礼ルートだと考えられる わけです。

――なるほど。では、「面タイプ」の地上絵は、どういう目的だったのでしょうか。

面タイプは、南谷と北谷の居住地を結ぶルート上に分布しています。そのことから、居住地間を移動するときの目印や道標であったと考えられています。両谷の居住地の間を徒歩で移動するためには、山裾を通らなければなりません。南谷にある居住地のすぐ近くでは、山裾に40点以上の「リャマ」が人間と一緒に描かれていました。リャマとは、アンデスを代表するラクダ科の家畜です。

そこから10キロくらい北東に移動すると、山裾に鳥の地上絵が描かれています。さらに10キロほど山のふもと沿いを移動すると、「宇宙飛行士」もしくは「フクロウ人間」と呼ばれている地上絵に出合えます。

この地上絵は鳥のような丸目をしているものの、胴体と手足は人間。さらに、この地上絵から10キロ北東へ行くと、北谷の居住地に着く。つまり、南北の居住地の間に、約10キロ間隔で地上絵が描かれていたわけです。これらの地上絵を利用すれば、あとどのくらいで次の居住地へ到着できるのかを知ることができます。

地上絵の組合せからは、当時の価値観を知ることもできます。南谷の居住地の近くには人間によって飼い慣らされた家畜が描かれている一方で、北谷にある居住地付近では半獣半人の地上絵が描かれています。この2つの間には、野生の鳥が描かれています。

人間・家畜・半獣半人・野生動物といった3つの区分があり、居住地を移動する際にこれらの地上絵を繰り返し見せることで、この価値観が当時の社会で共有された のではないでしょうか。

――古代のナスカには、文字や言葉がなかったと聞きます。

実は大学生の時代、たまたま手に取った本がペルーのインカ帝国に関する人類学の本でした。インカ帝国には文字がないのに、人口は1000万人を超えていたのです。

現代に生きるわれわれは文字なしには生活が成り立たないのに、彼らはどうやって情報をやりとりしていたのだろう、と疑問に思いました。

文字は必ずしも便利な道具ではない

同じアンデス文明のナスカ社会でも、人々は文字のない農耕社会を築き上げてきました。面タイプの地上絵は先ほども言ったように、道標的な目的も含め「見る」ためだったと考えています。一方、線タイプの巨大な地上絵は儀礼用の広場で、「見る」たけではなく、そこに人々が「集う」目的があったのではないか、と思いました。

インカ帝国の場合、首都クスコには300カ所以上の礼拝所がありました。これらの礼拝所の配置を、インカの人々は王族内部の序列を記録するために利用しました。また王の正統性を示すために、首都クスコはインカ王のシンボルであるピューマの形をしています。

確かに、ナスカには文字が存在しませんでした。情報伝達の媒体として地上絵を選んだナスカの人々には、文字は必要なかった のではないでしょうか。文字は「話し言葉」に基づくので、インカやナスカのような多様な言語が話された社会では、文字は必ずしも便利な道具ではありません。文字を普遍的に便利なものだと考えるのは、非常に西洋的・中国的なものの見方 です。

(引用終わり)

 

List    投稿者 seibutusi | 2021-05-10 | Posted in ⑧科学ニュースよりNo Comments » 

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