2014-11-11

栄養学の嘘1~「北緯50度の栄養学」を導入した明治政府の誤り

日本では江戸時代までに、米を主食に、季節ごとの野菜・魚介類を副食とした伝統的な食文化が形成されました。この食文化の歴史は途方もなく古く、その始まりはなんと縄文時代にまで遡ります。

玄米和食

以前は縄文人の食事は動物性タンパク質中心だったと考えられていましたが、実は炭水化物もたくさん食べていたことが最近の研究成果から明らかになってきています。炭水化物源としては、イモ類やクリやドングリ、トチの実などの堅果類がよく食べられたようです。そして、この食生活は、実に江戸時代まで基本的には大きくは変わっていません。

写真はこちらからお借りしました。

ところが、この日本人が築き上げてきた伝統的な食生活の体系は、「明治時代」「第二次世界大戦後」に起こったある出来事により、いわば“壊滅”“断絶”ともいえるような大転換を余儀なくされます。その出来事とは、政府主導により導入された西欧発の「近代栄養学」とそれも基づく食料政策の実施です。

まず、明治時代にヨーロッパ、主としてドイツで誕生し発展した「栄養学」が、そして第二次世界大戦後に、そのドイツで誕生した「栄養学」をベースに発展したアメリカの「栄養学」が導入されます。いずれも現代の栄養学に繋がる「カロリーと栄養素を中心にして考える栄養学」でした。簡単にいえば「肉や牛乳など“栄養豊富”な食べ物を、バランスよく沢山食べると健康になる」という考え方です。

この栄養学については、

『現代栄養学に代わる、腸内細菌と共生関係を組み込んだ“新しい栄養学”の構築に向けて』腸内細菌の働きの解明が進んでいますが、現代栄養学は、その成果を反映することがないにも関わらず、未だ健康管理の基礎として君臨し続けています。この状況には大きな問題を感じます。これを変えるには、まず、現代栄養学の基礎理論や登場した時代背景などを把握し、その限界と誤りを明確にしておく必要だと思われます。

『少食のしくみ-2』

では、まず明治時代の「ドイツで誕生した栄養学」から見ていきます。

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■「肉を食べれば元気が出る」の誤り
~ドイツ人医師・ベルツが実証した日本の伝統食の優秀性  

ドイツの医学者ベルツ博士(1849-1913)は1876 年(明治 9)東京医学校教師として来日,1905 年帰国。その間日本に約30年滞在、近代医学の発展に貢献しまた。さらに、脚気の研究や温泉療法とともに草津温泉を広く紹介し、あかきれ、しもやけの薬“ベルツ水は今も市販されています。著書「ベルツの日記」に、当時の日本人の体力に驚いたとエピソードに書かれています。

ベルツ博士は、東京から110km離れた日光に旅することになり、馬を6回取り替え、14時間かけやっとたどり着きました。もうひとりの人は人力車を使って日光に行きました。馬と人力車はどちらが早く着いたと思いますか?

人力車はなんと30分遅れるだけで、それも交代なしで日光に到着しているのです。

馬の力と書いて馬力です。馬力と言う言葉から精力、活力、体力をイメージします。また、スタミナの代名詞に使われているように馬の力の方が優っていると思いがちです。

ベルツ博士は、人力車の車夫の食事を調べると、玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵だったのです。日常食も米・麦・粟・ジャガイモなどの低蛋白質、低脂肪の粗食でした。肉も食べずにこれだけの力が出ることに驚き、そこで、ドイツ栄養学を適用すればより一層の力が出るであろうと、ベルツ博士は食事の実験を行いました。

22歳と25歳の車夫を2人雇い、1人におにぎりの食事他の1人に肉の食事摂らせ、80kgの荷物を積み、40km距離を走らせ、どちらが長く続けられるかを試したのです。結果を見ますと肉料理を加えた車夫には、疲労が甚だしく募り3日でダウンし、もとの食事にもどしました。では、おにぎりは3週間走り続けることが出来ました。肉の食事の車夫も、食べ物を元に戻すと元気に走れるようになったそうです。

この経験からベルツ博士は、帰国後ドイツ国民に菜食を訴えたと言います。

現在の栄養学から見れば、戦前の日本食は粗食と見なされますが、日本人の唾液量、胃腸の長さに適応していた食事だからこそ外国人のビックリした体力を持っていたのではないでしょうか。

「外国人が見た日本人の体力/生活習慣病と食養生…その7」より

このようにドイツ人医師・ベルツが日本の伝統食の優秀性を実証したにも関わらず、明治政府はドイツで誕生した「近代栄養学」を盲目的に受け入れていきます。明治政府は、「富国強兵策」として、日本人も欧米人に負けない「体格」を目指していたのかも知れません。

■明治政府の間違った選択
~「偽りの栄養学」を盲目的に導入した明治政府

では、明治政府が受け入れた「近代栄養学」とはどのような栄養学だったのでしょうか?

 ドイツの栄養学者・カール・フォン・フォイト(1831~1908年)はミュンヘン大学の教授であり、また栄養学においては当代一流の権威を持つ人物だった。彼は健康そうなドイツ人の食生活調査から、体重64kgのドイツ人は一日当たりタンパク質118g、脂肪56g、糖質500g、およそ3000kcalを摂ることが望ましいと算出していた。

そこで政府はその理論に基づき、当時の日本人は小柄で体重が52kg程度だったことから、これを比例配分して「タンパク質96g、脂肪45g、糖質415g、2450kcal」を日本人の栄養所要量と定めた。これは当時の日本人の食生活「タンパク質56g、脂肪6g、糖質394g、1850kcal」を大幅に超えるものだった。元々「低タンパク・低脂質・高糖質」で健康だった日本人に対して、ドイツ人並みの「高タンパク・高脂質・低糖質・動物食中心」の食事に改めるよう指導したのである。ここから日本の「カロリー・栄養素計算偏重主義」、西洋の栄養学一辺倒の現実離れした健康政策が始まる。

「日本人の体力」より 

フォイトの理論はもちろん、日本とは気候も風土も人の体質もまったく違うドイツにおいて築かれたものです。フォイトが推奨した「高タンパク・高脂質・低糖質・動物食中心の食事」とは、当時のドイツの食生活に他ならず、ドイツ人の食生活こそがもっとも優れた食生活だといっているのですが、その栄養学には、何の医学的・科学的・統計的な根拠がないと今日言われています。

フランスやイタリアなど南の暖かく食材に恵まれた国々とは異なり、寒冷で穀類の栽培が困難なドイツでは、肉や乳加工品を主食とした食生活をせざるを得ませんでした(ドイツ人の主食はジャガイモと言うのはよくある間違い、ジャガイモは副食であり肉が主食)。これは寒冷なヨーロッパで暮らすには、“やむを得ない選択”だったことは明らかで、「高タンパク・高脂質・低糖質・動物食中心の食事」を“優れたもの”とする理由はどこにもありません。

麦は畑作で、連作が難しく、なかなか主食にはなりにくい。だからドイツのように、パンもジャガイモも肉も野菜も乳製品もと、いろいろなものを食べていかないと生きていけない、むしろ“貧しい食生活”だったのが実態です。(逆に「米」という栄養面で優秀な食物を持ち、豊かな食生活をしていたのが日本人)

では、そのような“やむを得ない選択”にすぎず、むしろ“貧しい食生活”だった食肉中心の食生活を、もっとも優れた食生活とする栄養学が作られたのはなぜなのでしょうか?

その背景には、18世紀後半から19世紀の中頃にかけてのヨーロッパは国民国家の形成期にあったことが考えられます。人々の民族意識を高揚し、国家に収束させるには、自国民がどれだけ他国に比べ優っているかを示すことが有効でした。フォイトの提唱した食物摂取量の根拠は、ミュンヘンを中心に中流家庭の平均的な食事から算出したものとも言われています。つまりフォイトがつくった「近代栄養学」とは、国民の健康のためにどんな食生活が良いかを考えたものではなく、その当時のドイツの食生活こそがもっとも優れていたことを示すためのプロパガンダ=「偽りの栄養学」だったのです。

 

■「近代栄養学」を盲信した正岡子規の悲劇

最後に、「近代栄養学」が招いた悲劇を一つ紹介します。文明開化の明治の頃、洋風志向でハイカラな進取の気性が強かったひとりの文豪が、「フォイトの栄養学」への盲信によって、若くしてその命を落としています。

「正岡子規(1867-1902)」は、結核と脊椎カリエスが死因となり、満34歳で早世したといわれるが、その死に至る病を決定的にしたのが、余りに過剰なる過食、美食、暴食にあるということはほとんど知られていない。それは、当時から変わらず未だに“フォイト栄養学”への無批判な信仰が続いている証左でもある。

「明治34年9月2日の献立」
朝 :粥4椀、はぜの佃煮、梅干しの砂糖漬け、
昼 :粥4椀、鰹の刺身1人前、南瓜1皿、佃煮、
昼飯後梨2つ
2時過牛乳1合ココア混ぜて、煎餅菓子パンなど10個ばかり、
夕 :奈良茶飯4椀、なまり節、茄子1皿
夕飯後梨1つ。
この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかえす。
服薬はクレオソート昼飯、晩飯後各3粒(2合カプセル)、水薬、健胃剤。
今日夕方、大食のためにや例の左下腹痛くてたまらず

「正岡子規、早世の真実」

これが、病床の子規の日記に記された食事メニューで、およそ毎日同じように食べていたようです。まるで寝たきりの病人らしからぬ、そのあまりの豪食ぶりは食欲旺盛というより、異様なほど病的なものだったことが伺えます。食べ過ぎで苦しく、食後は吐いてまでも食べていたようで、腹痛も起こし、鎮痛剤まで飲んでも尚も食べ続けていました。「フォイトの栄養学」を盲信し、ただ迫りくる病魔に打ち勝つために、猛烈に過剰栄養をとるために食べ続けていたのです。これは、「偽りの栄養学」への盲信が招いた悲劇としか言いようがありません。


この時代、「近代栄養学」に基づく食生活を実践できたのは一部の裕福層に限られ、一般庶民の食生活にはほとんど関係がなく、伝統的な食生活は明治時代以降も続きます。正岡子規にような事例は特別なのかもしれません。

ところが、第一次世界大戦中、近代栄養学を産んだ当のドイツで起きた出来事が、「近代栄養学の嘘」を実証することになります。

………次回「栄養学の嘘2:ドイツの飢饉が実証した近代栄養学の嘘」に続きます。

List    投稿者 seibutusi | 2014-11-11 | Posted in ①進化・適応の原理, ⑩微生物の世界1 Comment » 

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コメント1件

 匿名 | 2015.11.25 13:15

主食とおかず
という食習慣は戦後にアメリカからもたらされたもの。

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