2013-08-16

子どものみずみずしい心を育む~シュタイナー教育の例 後編

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前編に続き、シュタイナー教育論について「人間理解からの教育」より紹介します 😀

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◆物語

9歳、10歳以前の子どもは、自分と周囲を区別していない、ということを明らかにしなければなりません。ある本能から、子どもは、子どもは幼いころから自分について「わたし/ぼく」というかたちで語ります。しかし実際は、子どもは世界全体の中にいると感じているのです。世界全体が自分と同族だ、と子どもは感じているのです。

子どもの周囲にある植物・動物・鉱物が人間のように語り合い、ふるまい、憎しみあったり、愛しあったりする、と話す事が必要です。想像力豊かに擬人化しなければなりません。精神のこもった方法で魂を吹き込むのではなく、子どもが生命あるものと生命のないものをまだ区別しないことによっておこなっている把握のしかたをするのです。

子どもにとっては、「石には心魂がない。犬は心魂を持っている」と考える理由がまだありません。子どもがおこなっているのは、「犬は動く。石は動かない」という区別ぐらいです。子どもは、動きが心魂に由来するとは考えていません。心魂を有するもの、生命を有するものが、人間のごとく語りあい、考え、感じ、共感と反感を抱くかのように取り扱うことが大切です。ですから、この年齢の子どもにもたらすものすべてを、童話・伝説、生気あふれる魂のこもった物語のなかに注ぎ込む必要があります。そうすると、子どもは本能的な心魂的・ファンタジー的なもののための、最良の心魂的性向を受け取れます。このことを重視すべきです

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この時期に子どもにもたらすものを形象に置き換えないで、さまざまな主知主義詰め込むと、子どもはのちになってそれを血管・循環系に感じることになります。わたしたちは子どもを<精神・心魂・身体>に応じて、一体として考察しなければなりません。このことは、くりかえし強調されねばなりません。
そのようにできるためには、教師の心魂のなかに芸術的な感覚がなくてはなりません。教師には、芸術的な素質が必要なのです。教師が子どもにもたらすものは、たんに考え出したり、概念のかたちでもたらせるものではなく、こういう表現を使ってよければ、予測できない人生の要素なのです。無意識のうちに、非常に多くのものが教師から子どもに移っていきます。

とくに童話や、心のこもった物語、伝説を子どもに語るとき、このことを意識していなくてはなりません。今日のような唯物論の時代には、教師は自分が語っていることを子どもっぽいと思っていることがしばしばあります。教師は、自分の語っていることを信じていないのです。(そこで真の人間認識の導き手である人智学(アントロポゾフィー)が必要になってきます。)
抽象的な概念で語るよりも、形象をまとわせたほうが、ものごとをすっと豊かに表現できるという事実に、わたしたちは気づきます。健康な子どもは、すべてを形象化し、形象を受け取りたいという要求を持っています。

伝説・童話・神話は高次の心理を表現しています。わたしたちは伝説・童話・神話をどう心魂的に扱うかに精通していきます。そうすると、自分の語ることを心底信じることができ、わたしたちが子どもに語る話は子どもに伝わっていきます。そうして、子どもと教師のあいだに心理がもたらされます。

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9歳から10歳のあいだに、子どもにとって非常に重要なことが生じます。抽象的に語れば、9歳から10歳のあいだに、子どもは自分と周囲とを区別することを学ぶのです。自分を個我と感じ、周囲を個我に属さない外的なものと感じるのです。この年齢の子どもは、なんらかの困難をかかえて、愛する教師のところにやってきます。たいてい、子どもは心の重荷になっていることを表に現さないのですが、子どもは心魂のもっと内なる深みにある問題を持って教師のところにやってきているのだ、ということを知らねばなりません。わたしたちは、正しい答え、正しい行動を見出さねばなりません。そこに、その子の全人生の多くがかかっているのです。

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教師は自明の権威でないと、この年齢の子どもに教育的に働きかけることはできません。教師は子どもにとって、真・善・美の代表者でなくてはなりません。子どもは教師に学ぶことによって、真・善・美に引き寄せられるのです。9歳から10歳のあいだに、「わたしは全てを先生から学んだ。で、先生はだれから学んだのだろう。先生の背後にはなにがあるんだろう」という感情が、まったく本能的に子どもの無意識のなかに現れます。教師は、さらにくわしく述べる必要はありません。定義や説明をしだすと、子どもに害を与えることになります。

重要なのは、子どものために、心から魂の染み込んだ言葉を見出すことです。たいてい、困難は何週間・何ヶ月もつづきます。その困難を乗り越えて、教師が子どものなかで権威として確立されることが大切です。そのときが、子どもの権威原則の危機なのです。それを乗り越えられると、この年齢で現れる困難に魂を込めて取り組む方法を獲得でき、必要な内面性と確かな信頼と真実をもって子どもに向き合うことができます。権威を保つことによって、大切なものが得られます。

人間の本質のなかに9歳から10歳のあいだによい人への信頼が揺らいではならないという法則があるのです。信頼を保てないと、人生のなかで発展していくべき内的な確かさすべてが不安定なものになります。これは非常に意味のあることであり、わたしたちはこのようなことをしっかり守らねばなりません。教育学で言われる細々したことよりも、各々の年齢にどのようなことが出現し、それに対してどのような態度を取らねばならないかを知ることのほうがずっと重要です。その態度から、正しい光が子どもの全人生に放射されるのです。
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◆植物学、動物学

子どもが9歳・10歳を超えると、外界の事実・存在について基礎的なことがらを教えはじめることが大切です。植物界・動物界への導入が大切なのです。
子どものまえに個々の植物を置いて、個々の植物を取り扱うと、現実に相応しないことをおこなっていることになります。ひとつの植物それ自体というのは、現実性がありません。野原に行って植物を摘むのは、地球の髪の毛を抜くのとおなじことです。髪の毛が人体に属しているように、植物は大地に属しています。一本の髪の毛を、それ自体で発生したもののように考察するのは無意味なことです。同様に、胴乱を持って植物採取に行き、植物を家に持ち帰って、個々の植物を観賞するのも無意味なことです。そのような方法では、正しい自然認識、正しい人間認識を獲得することはできません。

取ってきた植物を胴乱から取り出して名前を教えるという方法だと、子どもには非現実的なものをもたらしていることになります。そして、その作用は人生に及びます。どのように畑を耕し、どのように肥料をやって土地をいきいきさせるかということを理解することが不可能です。畑がどのように植物と関連しているかを知ることによってのみ、畑をどう耕すかを子どもは理解します
現代人は、しだいに現実への感覚を持たなくなってきています。専門家(実務家)は今日ではみんな理論家で、ほとんど現実感覚をもっていない、最初に述べました。人間は現実を感じることができなくなっているので、すべてを分離して、それ自体の、ものとして考察しています。

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大地がいかに植物と関連しているかを認識しようとするなら、どのように植物が大地に属しているかを知らねばなりません。どのように肥料をやるべきかは、土地と植物を一体のものとして考察することによってのみ、本当に認識できます。地球をほんとうに一個の有機体と見て、植物をその有機体に成長するものとみることによって、どのように土地に肥料をやるべきかが認識できるのです。そうすることによって子どもはいきいきとした土地の上に立っているという感情をはじめから持つことになります。

今日では、地層はどのようにして発生すると考えられているでしょうか。「層が重なっていたんだ」と、思われています。しかし本当は、地層は硬化した植物、硬化した生きものなのです。石炭のみが、かつて植物であったのではありません。石炭になった植物は大地よりも、むしろ水のなかに根を張っていました。花崗岩・片麻岩なども、植物的・動物的な本質のものなのです。

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一匹の動物をそれ自体として考察させることもしません。動物界全体を地上に拡散し、分散された大きな人間として考察します。人間がどのように大地の上に立ち、動物がどのように類縁であるかを子どもは知るのです。10歳から12歳ごろまでの子どものなかに「植物-大地、動物-人間」という表象を呼び起こすことは大きな意味があります。そうすることによって、子どもは心魂のいとなみ、身体のいとなみ、精神のいとなみ全体をもって、世界の中に位置することができるようになるのです。
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わたしたちが子どもに植物と大地の結びつきを感じさせることによって、子どもはほんとうに賢くなります。子どもは自然に即して考えるようになります。人間が動物とどのような関係にあるかを教えることによって、すべての動物の意志が、適切に分化・個別化されて、人間のなかによみがえります。動物に刻印されたあらゆる特徴、形態感情が人間のなかに生きています。そのことを通して人間の意志は強められ、人間はみずからの本質に自然な方法で、世界の中に位置します。

どうして今日、人間は根無し草状態で世界を歩んでいるのでしょうか。人間が世界を歩んでいるのをみると、しっかり歩んでおらず、足を引きずっているのがわかります。スポーツ学で学んだ動きもどこか不自然です。しかし、なによりも人間の思考がどうしようもない状態になっています。人生のなかでなにか正しいことをおこなうことができないのです。ミシンをかけたり、電話をかけたり、汽車に乗ったり、世界一周旅行を手配するにはどうしたらいいか人々は知っています。しかし、自分については、どうしていいのかわからない状態にあります。教育をとおして適切な方法で世界のなかに据えられなかったからです。

具体的に、植物を正しく大地に結び付け、動物を正しく人間と関係づけることによってのみ、人間は正しく大地の上に立ち、世界のなかに正しく位置するのです。これが、授業全体を通して達成されなければならない重要な、本質的なことがらです。

◆最後に

この本を読んで感じた事は、自然と人の生き方を正しく認識し、自然と人間の関係在り方を理解する(感じる)ことで本来備わっている感性、創造性といった芸術的感覚が養われ、また人間を信じる肯定的な心を育てることが、子どものきれいな心、みずみずしい心を育むことに繋がるのではないかと感じました。他にも芸術的感覚が長けることで、人生にどのような影響を及ぼすのかは興味深いところです。

今回紹介した「人間理解からの教育」の名の通り、人間を理解した教育というものは、幅広いシュタイナー研究の「人間理解」という部分で共通しています。シュタイナーは人間の内面、自然界との関係、霊的視点からも非常に深い追求をしています 8) 。

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前編後編に渡り、シュタイナー教育理論についての紹介をしましたが、言われる内容には、今では普通に感じる部分もあったと思いますが、当時の個人主義の強いヨーロッパではこのような教育はどのような存在だったのでしょうか。
また、当時の時代背景を見て、当時の主流の教育と比較し、なぜシュタイナーはこのような教育に着目したのかも探っていきたいと思います

さらに実際シュタイナー教育の実践内容と、教育を受けた子どもらはどのように育ったかを見ていきたいと思います。そこからシュタイナー教育における子どもの成長と能力の関係について考えていきたいと思います

List    投稿者 yamatetu | 2013-08-16 | Posted in ①進化・適応の原理2 Comments » 

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コメント2件

 古賀としお | 2014.12.12 13:32

はじめまして、、、
イラストレーターを営んでいる『古賀としお』ともうします。
あなたが、わたしに無断で掲載してるイラスト『昔話風・おむすびころりん』の『著作権』を有してる『制作者』です。
あなたが行っているわたしのイラストの『無断掲載』は『犯罪』です。
即座に掲載を取りやめて、謝罪してください。
誠意ある対応が見られない場合は、『刑事訴訟』『民事損害賠償請求』の両方を実行いたします。

敏速かつ誠意ある対応を強くお願いいたします。

 seibutusi | 2015.01.05 11:25

ブログ管理人です。
発見するのが遅れまして申し訳ありません。
該当のイラストと思われる画像は即刻、削除いたしました。
当ブログは有志のグループにて運営しております。
画像の著作権等に関しては注意を促しておりますが、
管理が行き届かないことがございます。
ご容赦ください。

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