君もシャーマンになれるシリーズ26 ~脳は幻覚を見る~
前回(こちら)までに、人類誕生の本質部分に「脳の進化」が位置付けられることを明らかにしてきましたが、進化史的には人類の脳はいまだ発展途上にあり、未完成で不完全な脳なのであろうと思います。特に人類は、環境変化に対する適応を脳の進化に可能性を求めた生物であるといえるほど脳の進化に特化しており、この先の進化の方向性も脳の進化にあることに疑いの余地はありません。
加えて、すでに人類は自然外圧を克服する段階に達したことにとどまらず、自らが引き起こす環境変化に適応しなければならないという運命を背負ってしまいました。この急速な環境変化に適応するには遺伝子の進化では不可能であり、「脳」を進化させることにしか人類進化の可能性は残されていません。言葉を変えると、今後は、「脳」が適応進化できなければ人類は滅亡する運命にあるといえるでしょう。
その人類の「脳」は、進化の段階で他のいかなる動物や生物が成し得なかった「観念」を生み出しました。人類は「観念」を生み出したことで、言葉を話し、道具を使い、文明を築き、芸術を生み出し、科学技術を発展させ、DNAでは2%未満の違いしか無いチンパンジーとは全く異なる存在にまで到達しました。
では、人類はなぜ? どのようにして? 「観念」を生み出したのでしょう? そして、観念の無い世界から観念を生み出した存在はどのような存在だったのでしょう・・・?
この様な問いを掲げると、「シャーマンの世界」と通じるなにかを感じます。集団の導き人であるシャーマンは、私たちには伺い知ることのできない超越的な世界を、『観念的』な意味付けをもって伝えてきているのですから、「観念の登場」とシャーマンには深い関係がありそうです。
それでは、これから数回にわたって「観念の登場」と「シャーマン誕生の起源」を解明していきたいと思います。今回は、シャーマンの見ている超越的な世界に通じる『脳が見る幻覚』についてまとめます。
人類の脳は、ある状況下において『幻覚』を見るように作られており、『脳は幻覚を見るもの』なのです。
まず始めに、「幻覚」とはどのようなものかを理解する上で、「幻視」についてウィキペディアから引用します。
幻視:視覚性の幻覚
実在しないものがみえるものである。~ 多くの場合は意識混濁という意識障害時に起こることが多く、特にアルコール中毒といった中毒性疾患や神経変性疾患でよく認められる。アルコール中毒で認められる幻視は典型的には小動物が認められるというものである。これらは意識変容によっておこるものと考えられている。
特殊な例としては脳幹病変の際に幻覚様体験が起こることがあり、脳脚性幻覚と言われる。脳幹は意識において極めて重要な役割を担う部位であり、大脳と脳幹の連絡の障害が金縛りと考えられている。~
視覚障害者の1割程度は脳の過活動から、精神に異常が無いにもかからず幻視を見る(シャルルボネ症候群)。他の例として、遭難中に幻視を見ることが多い。こちらは逆に救助者や飲み物、帰る家など自分の期待するものを脳が作り出すと見られている。
医学的には解明されていない「幻覚体験」は、上記のように病理や薬物使用に関して一定の傾向が認められるものの、健常者が見る幻覚も多々存在しています。
健常者が幻覚を見る要因には、「飢餓状態」、「不眠」、「感覚遮断による幻覚」、「出産時の幻覚」、「酸素不足による臨死体験」など、脳に過大な負担がかかった場合に幻覚を見る傾向があり、人は肉体的な危機や精神的な危機に陥った際に幻覚を見ると考えられます。
また一説では、脳は自ら経験していることの出所を正しく認識できない事態に対して脳が混乱することを避けるために、脳が自ら理解可能なものに置き換えたもの、それが「幻覚」だと考えられています。視覚的な置き換えが行われれば「幻視」に、聴覚的な置き換えでは「幻聴」に、触覚の場合は「幻触」となるのです。自ら経験していることが理解できないことによる脳の混乱を避けるために「幻覚」が生じるということは、認識レベルの未熟な子どもが「幻覚」を体験しやすいことにも繋がります。
この様に『脳は幻覚をみるもの』であり、『脳は幻覚をみるようにできている』と考えられるのです。
ウィキペディアの「幻視」の説明の中に、「大脳と脳幹の連絡の障害が金縛り…」という記述がありますが、「金縛り」は比較的多くの人が経験するものであり、単に疲れが溜まっている時などにも起き得るものですが、脳幹という「古い脳」と大脳という「新しい脳」の連絡に何らかの障害が起きた際に「幻覚」を体験するということは、古い脳における「本能」と新しい脳における「観念」に、「幻覚」が関与していることを示唆しています。
非日常的な体験の多くは「脳がみる幻覚」である可能性が高く、「霊を見た」、「幽体離脱を経験した」、「臨死体験であの世を見た」等々も、脳が「幻覚」を見ているのだと考えられます。しかし、それらの体験は、体験者にとってはとてもリアルで現実的な体験であるが故に、体験者には脳が(自分が)幻覚を見ているとは認識できないという特徴があります。ですから、霊をよく見る人は霊の存在を信じて疑わず、あの世を見た人はあの世の存在を信じることになります。
ここで、幽体離脱体験や臨死体験や霊視などは、脳が見る幻覚だと納得させられたブログ記事を紹介します。リアルな幽体離脱(体外離脱)体験ゆえに、通常はそれが幻覚であるとは認識できないことを経験的に「幻覚だ」と断言する内容には納得させられるものがあります。そして、非日常的な体験の多くは、「脳が見る幻覚」だと理解できることで、いままで霞にかかっていたものが一気に晴れるように見えてくることでしょう。
様々な霊的体験や巫病体験等に悩まれている方も多いと思いますが、それらは「脳が見ている幻覚」であると認識できることで対処出来ることもあれば幸いです。
では、「楽しい体外離脱」さんから引用させて頂きます。
あなたは「体外離脱」と聞いて、どんなことを想像するだろうか。いわゆる「幽体」とか「魂」とかいわれるモノが、カラダから抜け出す不可思議で超常的な現象だと考えている人も多いのではないだろうか。
たしかに私も自分で体験するまではそう考えていた。しかし現在の私は、自分自身で数百回もの体外離脱体験をした結果、それが「幽体」や「魂」がカラダから抜け出す不可思議な現象ではないと確信している。
では体外離脱現象の正体は何なのか?
答えは「幻覚」である。
あまりにもありきたりで普通の答えだが、もちろんタダの幻覚ではない。体外離脱体験者がよく「断じて夢や幻覚ではなかった」と言うが、すなわち断じて夢や幻覚ではなかったと錯覚するぐらい超リアルな「幻覚」のことだ。
一般的に「幻覚」という言葉には、夢のように不確かで曖昧な映像というイメージがあるので、体外離脱体験が現実の体験であったことを強調したいため、ついつい比較のために「幻覚」という言葉を使いがちである。
しかし本当にリアルな「幻覚」は、そう簡単にそれが幻覚だと自覚できるモノではない。私も何度も体外離脱体験をして、初めてそれが「幻覚」であると気付いたのだ。
そしてさらに何度も体外離脱を体験すると、その超リアルな「幻覚」である体外離脱現象が、じつは睡眠中にみる「夢」と同質のモノで、その差は睡眠の深さによる覚醒度の違いだけだと判ったのである。
では何度も体験しなければ自覚できないほどリアルな「幻覚」であり、しかも「夢」と同質のモノであるという体外離脱体験とはどんな体験なのか、次章から詳しく説明して行きたい。
★★金縛り時代★★
私の体外離脱体験を語るには、まず「金縛り」のことを語らなくてはならない。「金縛り」が私の体外離脱の基本であり、幻覚がいかにリアルであるかを語る上でも大変解りやすい事例であるからだ。
私は中学生になってからよく金縛りに遭うようになった。今でこそ金縛りは「カラダは眠っているが脳は起きている状態」という、科学的にも説明がつく現象なのだと理解しているが、当時は幽霊や悪霊が引き起こす心霊現象だと考えていたので、初めて金縛りに遭った時の私の恐怖は大変なものだった。
それでも何度も経験すると、そのうち慣れて恐怖も感じなくなり、金縛りの最中でも明日の予定を考えたり、電源を切り忘れたラジオの笑い話に耳を傾け、心の中で爆笑するという余裕さえでてきたのだった。
ただ恐怖は感じなくなっても、金縛り中はかなり息苦しく、決して気持ちのいい時間ではなかったので、当時の私は金縛りを解くためにいろんなことを試してみた。
カラダは動かなくても心臓や肺は自然に動いているわけだから、自発的に深呼吸をすることでカラダの感覚を取り戻そうとしたが、これはよけい息苦しくなっただけで失敗。
もっと頭を働かせて覚醒させれば金縛りも解けるだろうと、思いついた数字を適当に足したり引いたり掛けたりして暗算したこともあるが、これも効果なし。
高校生の時には、当時授業で覚えさせられた「枕草子」の序段「春はあけぼの」を心の中で暗唱してみたが、最後まで暗唱しても、やはり金縛りは解けなかった。
とにかくこのように金縛り中は、寝ぼけていたとかそんなレベルではなく、かなりハッキリ物事を考えることができるほど覚醒しているのだが、それでもカラダはまったく動かないのだった。
現在は金縛りに遭っても、これをチャンスとばかりに体外離脱してしまうので(「体外離脱の方法」で詳しく説明)息苦しさを感じることもなくなったが、当時はまだ体外離脱できなかったので、息苦しさの中、ひたすら金縛りが解けるのを待ち続けるしかなかったのである。
★★驚異の幻覚★★
さて、すっかり金縛りが日常の一部になったころのある晩、金縛りが解けるのを待っている間、他にすることもないので、寝室の壁に掛かったカレンダーの日付を見ながら、その週の予定などを考えていた。
ところが金縛りが解けた後、再び寝室の壁を見て私は驚いた。ついさっきまで見ていたカレンダーが無かったのだ。金縛り中はたしかに壁にかかっていたカレンダーが忽然と消えてしまったのである。
よくよく思い出してみると、たしかに以前はそこにカレンダーが掛かっていたのだが、2~3日前に取り外して別の部屋に移していたのだった。
つまり、私が見たカレンダーは、カレンダーを取り外す以前の私の記憶を元にして現れた「幻覚」だったというわけである。
幻覚など薬物常習者が見るモノと思っていた私にとって、金縛り中にも幻覚を見ることができるとわかったのは、ちょっとした驚きであった。
ただ、その時点ではまだカレンダーだけが幻覚だと思っていたのだが、その後、じつはカレンダーだけでなく、金縛り中に見えるモノすべてが「幻覚」であるとわかった。
金縛り中に寝室の様子を眺めていた私が、金縛りから開放された時、本当は寝室を眺めることができない「うつ伏せ寝状態」だったということがあったのだ。
金縛り中、カラダは動かなくても眼だけは動くので、周囲の様子を眺めることもできるが、実際には眼は閉じていて、眼を動かしているつもりになって、幻覚の情景を眺めているにすぎなかったのである。
私はそれまでは幻覚という言葉に対し、夢のように不確かで曖昧な映像というイメージを持っていたのだが、私が見た「幻覚」は、カレンダーの数字が一文字一文字きちんと読み取れたし、寝室もタンスの形状から天井の木目まで、何ら現実と変わるところはなかった。
金縛り中に「幻覚」を見たことのない人には信じられないことかもしれないが、「カレンダー」の件や「うつ伏せ寝」の件のように、後で現実との相違点を発見することがなければ、それが「幻覚」であると自覚するのは極めて困難なことなのだ。
そしてもちろん「幻覚」はカレンダーや寝室の情景だけにとどまらない。時には人間の姿をした「幻覚」も現れた。
ある時、金縛り中に眼を開けると(実際は眼を閉じていて、開けたと錯覚しているにすぎない)、仰向けに寝ていた私のカラダの上に、私と向き合うような格好で、うつ伏せに寝ている浴衣姿の見たこともない老人の姿があった。
ハゲた頭に白い眉毛と白いあご髭、シワとシミだらけの顔の老人は、ほとんど歯の抜けた口に薄ら笑いを浮かべながら、気味の悪い眼で私を見つめていた。
すでに「金縛り中に見えるモノはすべて幻覚である」ことを学んでいた私であったが、不精ヒゲの1本1本までよく見えるこの不気味な老人に対しては、それが「幻覚」であるとは自覚できず、私は「幽霊が現れた」と思った。
「幽霊」に対し恐怖はあったが、それよりも、たとえ「幽霊」といえども私の安眠のジャマをしたこと対する怒りの方が強かったので、私は怒りをこめた右拳で老人の顔面をブン殴ってやった。すると老人の姿も消えた。
正確に言えば、金縛りで動かなかったカラダをムリヤリ動かして殴ったと思った瞬間、右手は布団を高く跳ね上げ、夢から覚めた時のように金縛りも解け、老人も消えていたのであるが、こうして私は、「金縛り中に見える人物像もまた幻覚」であることを学んだのだった。
★★幻視と幻聴★★
今までは「幻覚」という言葉を、主に視覚の幻覚、つまり「幻視」のことに対して使ってきたが、「幻覚」はなにも「幻視」だけではない。金縛り体験には、しばしば聴覚の幻覚である「幻聴」が伴う。
幻聴の音の種類は様々で、よく聞くのは扉の開閉音や、廊下を歩く音、階段の昇降音など日常でもよく耳にする音だが、「ドンドン」という大きな音や耳鳴りのような「キーン」という音もあれば、落ち葉が風でこすれ合うような「カサカサ」とか、木がきしむ時のような「ギシギシ」とかいう音もあるし、「ウギウギュギュ~」とか何の音なのか形容もできない音も多々ある。
また美しい音色の音楽であることもあり、音楽の幻聴は何度経験しても素晴らしい時間である。知らない曲のこともあれば、よく知っている曲のこともあるが、共通して言えるのは、どちらも全くノイズのないクリアで澄んだ美しい音色であることだ。幻聴は不快な音であることも多いが、音楽の幻聴に限っては不快な思いをしたことは全くない。
かつて金縛り中に聴いたトランペットのソロが奏でる「特捜隊の歌」は、まるでこの世のモノとは思えない美しい音色であった。トランペットのソロ版の「特捜隊の歌」なんて実際には聴いたこともないのに、幻聴とはなんとも不思議な現象である。
そして、なんと言っても極めつけの幻聴は人の声である。
友人や肉親の声もあれば知らない人の声もあるし、何語か解らない聞き取り不能の言葉(らしきモノ)を誰かがしゃべっていることもあれば、そんな言葉を大勢がしゃべっていることもある。
また人の声の「幻聴」は、人の姿の「幻視」とセットになって現われることが多い。たとえばこんなことがあった。
ある日の金縛り中、私は息苦しさの中、ひたすら金縛りが解けるのを待ち続けていた。するとそこに友人のB氏が「よっ!久しぶり~」と現われ、私が「いま金縛りで動けへんのや、助けてくれ」と言うと、B氏は「しゃあないなあ~、助けたろ~」と言って私の腕を掴んだのだった。
B氏が私の腕を掴んだと思った瞬間金縛りは解け、同時にB氏も消えてしまったのだが、就寝中の深夜に友人B氏が我が家を訪れるハズもなく、もちろんそれは「幻視」と「幻聴」がセットになった「幻覚」であった。
すでに「金縛り中に見えるモノはすべて幻覚である」ということを学んでいた私であったが、時として「幻聴」を伴うリアルな「幻覚」に対しては、「現実」と錯覚してしまうこともよくあった。
しかしながらこのようなことを繰り返し、「幻視」の時と同じく、金縛り中に聞こえる音はすべて「幻聴」である、ということも学んでいったのだった。
だからある時など、金縛り中に「私は金星人だ!」と名乗る人物が現われ、「キミと友達になりたい」とか「宇宙に連れていってあげる」とか話しかけてきたこともあるが、もちろん私は「幻覚」だと自覚していたので動揺することもなく、ただ金星人の「幻覚」を楽しんでいた。
おもしろいのはその声が、もしテレパシーというモノがあるとすればこんな風に聞こえるのだろうと思うような、頭の中に直接響くよく通る声であったことだ。これは幻聴全般に言えることだが、幻聴は耳で聞いているという感じではなく、頭の中に直接聞こえているという感じなのである。
もし金縛りも幻覚も初体験というような人が私と同様の体験をすれば、「宇宙人」と接触したとか、「チャネリング」したとか考えてしまってもおかしくはない。
前章で述べた狂った老人もそうだが、金縛り中に「幽霊」や「宇宙人」を見たという類の話は、ほとんどがこのような「人物像の幻覚」で説明がつくのではないだろうか。
★★幽体離脱?★★
さて、高校生になると金縛り中にある変化が顕れた。まったく動かなかったカラダが少しづつ動くようになってきたのだ。
始めは手の指先だけだったが、次第に腕全体、そしてカラダ全体へと可動範囲が広がっていった。
しかし不思議なことに、どんなにカラダを動かしても、金縛りが解けた後は最初に寝ていた時の姿勢に戻っていた。どうやら動かしているのは現実のカラダではないようだった。
「幽体離脱」、私はそう思った。
肉体とはまた別の、俗に言う霊魂に相当する「幽体」というものが、カラダから抜け出す現象なのだと考えたのだ。ただし、そのまま簡単にすぐ「幽体離脱」とまでは行かなかった。
「幽体」は、動くといっても、かろうじて動くという程度で、チカラが全然入らないうえに、少しでも気を抜くと、すぐに現実のカラダの姿勢に戻されてしまうのだった。
しかし何十回となく金縛りを経験し、何十回となく「幽体離脱」にチャレンジした結果、ついに全身を動かし、完全に「幽体」を現実のカラダから離脱させることに成功した。
その体験は、まさに私が見聞きした通りの「幽体離脱」体験そのものであり、カラダはふわふわと宙に浮き、空中をすべるように移動し、扉や壁をカラダごと突き抜けることもできた。
このとき私は、「幽体」すなわち「霊魂」の存在を確信し、もう死を恐れることもないのだとさえ思った。
ところがその考えは、その後何度も「幽体離脱」を経験するうちに、完全な間違いであることがわかった。
★★幻体(げんたい)★★
何度も「幽体離脱」をしてわかったことは、離脱中に見えるモノ聞こえるモノは、実際の様子とは違うということだった。
たとえば離脱中に見た自室の本棚は、現実の本棚と本の配置が変わっていたり、実際には所有していない本まであった。
離脱中、居間に行くと母親が座ってテレビ見ていたが、後で確かめると実際は父親がテレビを見ていた。
離脱中、居間のテーブルの上に、大きな釜に入った炊き込み御飯がおいしそうに湯気をあげていたが、そんな大きな釜は我が家にはなかったし、もちろん実際には誰も炊き込み御飯など作らなかった。
離脱中、自宅を離れ友人の家に行き、友人と会話を交わしたことも何度かあったが、後で友人に確認を取っても、出会った事を肯定されたことは一度たりともなかった。
このように、離脱中の体験は、宙に浮いたカラダの感覚や手足を動かす感覚、モノに触った感覚がある以外は、金縛り中の「幻覚」体験とほとんど変わらなかった。
つまり、「幽体離脱」体験は、金縛り中に体験した視覚の幻覚である「幻視」と、聴覚の幻覚である「幻聴」に加え、運動感覚や触覚の幻覚である「幻触」(たぶん私の造語)までもが現れた「幻覚」体験だったのだ。
触覚の幻覚を何と呼べばいいのか辞書を調べても載っていなかったので、とりあえず今後も触覚の幻覚のことは「幻触」と呼ばせてもらうが、とにかくこの「幻触」こそが、「幽体離脱」体験者に「断じて夢や幻覚などではなかった」と言わせるほど「幻覚」にリアリティーをもたらしていたのだ。
その後も離脱経験が増えるにつれ、何度か味覚の幻覚である「幻味」も体験したし、たった一度ではあるが嗅覚の幻覚である「幻嗅」も体験した。すなわち「幽体離脱」体験とは、「五感」すべての感覚を伴う「幻覚」体験なのである。
現在ではこのような体験を、「幽体」説を主張する人も、私のように「幻覚」説を主張する人も、一般的に「体外離脱」体験と呼んでいるようなので、私も以後はこの「体外離脱」という言葉を使わせてもらうことにする。
そして体外離脱中の現実のカラダでないカラダのことを、「幻覚」の肉体という意味で「幻体(げんたい)」と命名させていただく。
★★脳の錯覚★★
前章では、金縛り中に現れたリアルな「五感」を伴った幻覚が「体外離脱」であり、離脱中のカラダを「幻体」と命名したと書いた。そこで、この章では、なぜ金縛り中に「体外離脱」という特殊な「幻覚」が現れるのかを自分なりに考えてみた。
「金縛り」は、入眠時REM睡眠などが原因の、科学的にも証明されている睡眠中によくある現象である。簡単に言えば「カラダは眠っているが、脳は起きている状態」だ。
つまり、金縛り中にカラダが動かないということは、「脳」は起きているので「カラダを動かしたい」と思うことはできるが、カラダが眠っているため、「カラダを動かしたい」という「脳」の命令が、カラダに伝わっていない状態だといえる。
したがって、もし金縛り中に眼を開けて周りの様子を見ようと思っても、「眼を開けろ」という「脳」の命令がカラダに伝わらないため、眼を開けることはできないのである。
しかし、「金縛り」という睡眠中の特殊な状況下では、「脳」はカラダが眠っていることを認識できないらしく、「眼を開けろ」という命令は実行され、すでに眼は開かれていると錯覚してしまう。
眼を開けているという感覚は「脳」の錯覚なので、もちろん眼からは視覚情報が入ってこない。しかし眼を開けているのに視覚情報が入ってこないということは、「脳」にとっては不測の事態である。
そこで「脳」は、眼を開けていれば入ってくるはずの視覚情報を、「脳」が持っている記憶情報で代用したのだと考えられる。特に、毎日毎日見ている寝室の視覚情報を記憶の中から引き出し、リアルな「幻視」として再現するのは「脳」にとってはそう難しいことではないだろう。
そして視覚の記憶情報から作られた「幻視」同様、金縛りで動かないカラダの代わりに、運動感覚や触覚の記憶情報から作られた感覚が「幻触」であり、「幻触」を持った幻覚のカラダが「幻体」なのである。
「幻体」が持つ独特の浮遊感については、本来は骨と筋肉でしっかり受けとめなければ得られない地球の重力感を、「幻体」では再現できないのだと私は推測している。
(続きは是非引用元(リンク)でお読み下さい。体外離脱時(幻覚)のセックスが超快感の世界であることなどにも触れています。)
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少々長い引用になりましたが、とても希有な体験に裏打ちされた幻覚世界がリアルに伝わってきます。また、経験者で無ければ理解できず、かといって否定しきれなかった何かの存在=霊の世界や非日常的体験は「脳が見る幻覚」であるという納得感が得られたのではないでしょうか。
しかし、「霊は脳が見る幻覚である」という結論があったとしても、なにを契機に霊という幻覚をみるのか?霊(幻覚)を見る人と見ない人の違いは何なのか? なぜ皆同じような幻覚を見るのか? など、まだまだ説明できないことや疑問は多々残ります。
反面、「霊能者」、「シャーマン」と呼ばれる人たちは日常的あるいは意識的に「幻覚を見ることのできる脳回路」を持っている可能性も見えてきます。
「幻覚を見る脳回路」という仮説を立てると、子どもの頃に見やすい幻覚体験が積み重なることで「幻覚回路」が形成できる可能性も見えてきます。反面、子どもの頃に見ていた幻覚(脳が理解できない状況を理解可能なものに置き換えた幻覚)は、経験と認識を蓄積することで見られなくなるという説明も可能になります。
また、ある日突然経験する幻覚体験を契機に「幻覚回路」が開く可能性も見えてきます。沖縄のユタが、成長段階において陥りやすい精神的な不安定状態(ある種の危機状態)を契機に(幻覚)能力が開花することや、同様な巫病体験(=突然の幻覚回路の開花)によってそれ以降も幻覚世界と繋がり続け無ければならない苦しい状況に陥ることも説明できる様になります。なお、多くの宗教家たちもこの「幻覚回路」を強くした人々であるように見受けられます。
「幻覚世界」と「脳が幻覚をみている」ということを理解の入り口として、次回(こちら)はもう少し具体的に「幻覚」の中身に触れてみたいと思います。
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