2010-01-26

実現論勉強会シリーズ7 ホ.サル時代の雌雄分化

実現論勉強会シリーズ第七弾です
~前回のおさらい~
第4の楽園である樹上を制覇したサルにも、これまでにない不全状況が訪れた。
縄張り闘争に負けても淘汰されないという、本能ではどうにもならない不全状況。
前回は、そのような状況下をサル達がどのように乗り越え、意識を統合する事が出来たのか?を学びました。
第一の統合様式:相手に依存・期待収束し、共認する事で意識を統合。
第二の統合様式:捨揚統合、つまりプラスのベクトルに収束し、更に不全感を解消。
第三の統合様式:闘争系の共認統合。集団課題に対する役割・規範を共認し、共認によって統合された集団を形成。

このように共認によって統合された集団は、共認内容を組替える事で容易に、かつ多様に、集団の統合様式を組替えることが出来る機能であり、それまでのDNA進化という生物史を覆す、全く新たな進化機能の実現でもありました。
しかし、その共認機能も決して完璧では無く、また新たな問題を同時に発生させる事になります。
a0095701_12222288.jpg
いつもの応援、お願いします。
ブログランキング・人気ブログランキングへ
にほんブログ村 科学ブログへ

 にほんブログ村 科学ブログへ


ホ.サル時代の雌雄分化より

 だが、共認機能は決して完璧ではない。それは、必然的に自己の破壊回路を生み出して終う。期待・応望回路は、役割充足欠乏(=期待に応えている充足の欠乏or 期待され認められることの欠乏)を生み出す。とりわけ評価共認は、期待・応望回路の周りに「与えられない期待や評価」に対する欠乏の塊を生み出し、そこから他者否定と自己賛美(正当化)を目的とする自我回路が形成される。(前述した-捨象+収束の+=ドーパミン快感回路で形成されている。)この自我回路が形成するのは、全て「与えられない期待や評価」の代替物であり、従って全てが実在しない幻想である。また「与えてくれない」相手や集団に対する他者否定と自己正当化の塊なので、共認の敵対者とも破壊者ともなる危険性を秘めており、言わば共認機能が生み出した鬼っ子である。  

自我と言えば、フロイトの「我思う、故に我あり」という言葉を思い出す方も多いのではないでしょうか?
現代では「自我の確立」等という概念も教育場面等で耳にする事がありますが、果たして自我こそが人類の原点であるという解釈は成り立つのでしょうか?
るいネット
我思う、故に我あり
より

ところで、この「全てを疑った上で最後に残るのは”思惟する存在である自己”である」という到達点は、あまりにも過激である。その現実否定の過激なスタンスは、これが支配観念として人々の上に君臨している現状を思えば、その過激性=劇薬性という一点で驚嘆に値する。
しかしこの劇薬の問題点は全ての現実の存在を「懐疑する」≒「捨象」した果てに、全ての思考の立脚点を、思惟する自己の観念に置いた点である。
私は観念機能とはあくまで現実を対象化するために存在すると考える。生物は全て現実を対象化して生きている。そして生物学上で人類が進化したといえる最大の武器はこの観念機能による現実の対象化の機能であろう。それは人類の生命線といっても良い。(言うまでも無く自然科学は基本的に現実対象化のベクトル上にある)
その観念を現実から180度「転倒」させ、思惟=現実を捨象した自己の頭の中に立脚点をおいたこと。これは構造的にはかつての神の位置に個人を措定し直したに過ぎない事を意味する。
これこそが個人主義哲学の最大のペテンだと私は考える。

自我ではなく、共認こそ原点であるより

自我が規範や評価etcの共認に対する否定を源泉として始めて成立する共認機能の副産物であり、しかも否定に基づいているが故に共認(充足)を破壊し本源集団を破壊してゆく敵対物(共認の敵対物)であることも明らかにしました。
このことは、人類における人格形成の過程にも、そのまま当て嵌めることができます。実際、人格の形成は、母子や仲間との親和充足体験=期待・応合回路の形成をもって始まります。そして、期待・応合回路が発達してゆくにつれて、その先に課題共認や役割共認や規範共認あるいは評価共認etcの共認回路が形成されてゆきます。それに伴って、周りのそれら様々な共認内容に対する否定を源泉とする自我回路が形成され始めるのです。共認の敵対物たる自我は、その後しばしば凶暴な他者否定・自己正当化の相貌を露わにします。
それに対して、親和共認や役割共認や規範共認etcの共認回路が自我回路を制御(一部は封印)することによって、人格は成長してゆきます。

上記に紹介したように、サル・人類の成長過程を見ても、生まれながらに自我に立脚し、自らの意思で全てを統合できる赤ちゃんなど見た事もありません。よく子供の成長に連れて、自我の芽生えという言い方をする事がありますが、自我が発現してもそれを共認(周りの評価や規範)によって制御できるようになる事こそが、本当の意味での成長と言えるんですね。 😀
さて、サルに話を戻しましょう。真猿として集団化し、さらに同類闘争が第一義課題となった事で、雌猿にある変化が訪れます。

本能に基づく外敵闘争なら、メスも闘える。例えばライオンの雌はシマウマを倒せるし、サルの雌もリスを蹴散らせる。ところが、本能に基づく外敵闘争ではなく闘争共認に基づく同類闘争になると、同じサル同士の闘いなので体格が劣るメスは全く戦力にならない存在となり、存在理由を失って終う。その結果、メスは極度に依存性を強め、首雄に強く依存収束する(強固な依存収束回路を形成する)と共に、首雄の性的期待に応望すべく、自らの全存在理由をかけて性機能(挑発機能や発情機能)を発達させてゆく。例えば、メスの尻は赤く膨れ上っているが、これはオスを挑発する為であり、一定期間だけであった発情期も次第に延長されてゆき、最も進化した真猿では、遂に年中発情することが可能な状態に至っている。かくしてメスは、首雄に対する性的役割(広義には解脱充足を与えること、その中心が性的充足を与えること)を、自らの第一義的な存在理由とする性的存在となる。従ってメスの脳回路は、存在理由の欠損を原点にした強力な首雄収束⇒性的役割収束⇒性機能収束の共認回路が主軸になっている。首雄との雌雄解脱共認を主回路としているとも言える。もちろん、それが生物を貫く雌雄の差別化というベクトルに合致した、一つの進化形であることは、言うまでもない。

サルが他の哺乳類と比べて豊かな性機能を発達させていった理由も、集団内の共認によるものだったんですね。ちなみに、雌のサルはおよそ35日おきに発情期を向かえ、発情期には一目でわかるくらい、お尻を大きく膨らませます。
こちらのページ{Z o o l o g y}にその様子が解る写真が載っているので、是非見てみてください。
ところで、共認機能はサル時代に獲得した機能ですが、だとすれば当然サルの段階で共認機能の鬼っ子である自我の発現もあったのでしょうか?

 しかしメスは、その決定的な役割欠損から、依存収束と同時に強力に自我収束しており、依存収束回路と自我収束回路が強く相乗収束し易い。とりわけ、性闘争の本能回路と自我回路は共に「自分以外は全て敵」とする回路なので、性闘争回路と自我回路は不可分に相乗収束している可能性が高い。但し、不可分と言っても、夫々の回路の伝達物質は異なるので、自我回路(ドーパミン)を刺激しなければ、純粋な期待・応望(役割欠乏=エンドルフィン)に基づく首雄収束⇒応望収束⇒性機能収束の回路が作動する。しかし、自我回路が刺激される時、メスの生殖収束→性収束は闘争集団の統合を乱し衰弱させる恐ろしい分解力・破壊力となって現れることになる。もっともサルの段階では、メスは集団を離れて生きてはゆけないので、その矛盾は集団統合の乱れや衰弱として現れはしたが、決定的な破壊にまでは至らなかった。

 また、「自分以外は全て敵」とする性闘争回路と自我回路が不可分に相乗収束しているのは、オスも同じである。従って、真猿集団の内部に発生するオス間の性闘争(更にはエサの取り合いetc.の私権闘争)は、集団を破壊する危険性を孕んでおり、何としても止揚されなければならない。しかし、「全て敵」である限り、共認は成立しない。この様な欲と欲がせめぎ合い、自我と自我がぶつかり合う性闘争・私権闘争は、力によってしか制圧されない。そこで真猿は、性闘争・私権闘争を制圧した力の序列を共認することによって(力の序列を秩序原理とすることによって)、性闘争・私権闘争を止揚し、共認の破壊=集団の崩壊を喰い止めている。事実、真猿集団のオスたちは、15匹居れば1番から末端の15番まで序列化されており、一方では挨拶などの序列規範を守りながら、同時に絶えず序列闘争を繰り返している。(私権闘争は力の序列共認に収束するというこの原理は、人類の私権時代にも顕在化する。私権時代三〇〇〇年間は、力の序列⇒身分制が秩序の根幹となり、体制の主軸となっている。もちろん、社会主義国の指導者序列もサルの序列原理と同じである。)  

やはり、サルの段階で既に自我の発現する要素は多分に含まれていたようです。
しかし、それらの大元は集団適応の期待の元で共認統合を実現してきた基盤、即ち集団統合こそが群全体の一番の期待です。
よって、個体の自我よりもそれらを集団としてどう統合するか?という課題の方が重要であり、必然的に発生してしまう自我を力の序列共認によって見事に統合し、集団適応してきたのです。
共認集団だけあって、既に政治的な社会統合の原初形態が見て取れる事が、興味深いですね。
51ETV0XE4RL__SL500_AA240_.jpg

 最後に、サルの婚姻様式について簡単に見ておこう。原猿は概ね原モグラと同じで、1匹の首雄に2~3匹のメスが集中する首雄集中婚が主流である。同時に注目しておくべきことは、原猿集団は首雄と数匹のメスとその子供たちによって構成される生殖集団であるという点である。もちろん、首雄が闘いを担う闘争集団でもあるが、重要なのは、この集団が雌雄の解脱共認によって成立し、統合されているという点である。もちろん、その解脱共認の中心を成すのは性的な期待と応望の共認であり、この様な雌雄解脱共認は、驚くべきことに闘争集団である真猿集団においてもその核として存続し続けるのである。  

 言うまでもなく、真猿集団は闘争共認によって統合された闘争集団である。しかし、戦力にならないメスたちは、その闘争集団の中央に、あくまでも原猿と同じ雌雄解脱共認の世界(=生殖集団)を形成し続ける。つまり、メスはあくまでも生殖集団を拠点とし(メスの生殖収束)、首雄との雌雄解脱共認を存在の武器とし続けた(メスの首雄収束)。従って、真猿の婚姻制も首雄集中婚が主流で、中央に首雄とメスたちと子供たち、その外側にオスたちという、絵に描いた様な内雌外雄の同心円の隊形を取る。この、あくまでも生殖集団=性的な期待・応望に基づく雌雄解脱共認に収束するメスの習性は、原猿・真猿・人類の極限時代、そして遂に闘争を放り出して生殖だけの家庭を不可侵の聖域として形成した現代に至るまで一貫しており、全く変わっていない。

まとめ
サルの雄と雌は、互いに異なる役割を共認し、かつ集団統合の視点から雌雄解脱共認を核とした内雌外雄の集団形態を作り出した。
主雄と雌達の間だけで解脱共認が形成されると、他の雄達は共認不全にならないの?といった疑問も沸いてきそうですが、そこには雌達から雄達へと向けられた集団統合期待がしっかりと込められているんです。
雌達が最大限に評価する存在こそがボス=主雄であり、だからこそ主雄の期待には精一杯応えて行く、というのが雌達でもある。
そして、そのように評価され充足しているからこそ、激しい外圧にも先頭にたって立ち向かって行く事が出来る 。常に最前線で外圧を受けて立つ強い雄だからこそ、みんなに評価され依存され、何よりも他の雄達にとっての一番の同化対象にもなるのです。
なので、他の雄達は主雄と雌達の共認を羅針盤としつつ、自らも次のボスを目指して序列闘争を繰り返し、一方で自らに期待されている同類闘争にも精一杯務める事で、集団内の評価を獲得していくのです。雄・雌の役割だけでなく、全てが集団を強くし、適応力を高めて行くというベクトルで貫かれた期待⇒評価共認の関係性が見て取れますね。
現代人が学ぶべき視点が、実に多く見受けられます。
さて、次はいよいよ人類史へ突入!
木から落ちたサル
の歩んだ道は、どのような進化を辿って現代に至ったのでしょうか?
楽しみですね~☆

List    投稿者 kawait | 2010-01-26 | Posted in ③雌雄の役割分化4 Comments » 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.seibutsushi.net/blog/2010/01/936.html/trackback


コメント4件

 andy | 2010.09.16 13:04

台湾の虫・・・逞しい。
普段日本の都会に住んでいると、あまり昆虫を見かけないですが、台湾では毎日が虫との戦いなんですね。

 スラッカー | 2010.09.16 14:35

アフリカマイマイつーか広東住血線虫とは同じ地球に住んでるとはいえ自分は上手くやっていけそうにありません・・・
つか聞いてると日本が発展できたのは虫がそこまでアグレッシブじゃないからな気がしてきました
自分台湾に住んでたら仕事手につきません
今後は日本も虫の検閲とかゆるくなったし温暖化もあるので台湾化していくのでしょうか?
そしたら徴兵制等ディスアドバンもありますが完璧韓国に抜かれますね

 sarusaru | 2010.09.19 10:37

>名は「捕蚊拍」というものです。見た目はラケットのようです。
>※人に効くかどうかは試してないが、やめた方が良さそうです
日本でも以前からありましたよ~
もちろん! 
「触るべからず」と書かれていたら「触るしかない!」と…
もちろんバチッと意外に痛い(><)というよりビックリ!?
単三電池2本でこんなに威力が!
こんなものを作る人類の観念(共認)機能はすごいですね☆
※注意※
基本的に人が触って遊ぶものではないので、良い子は決して触らないようにね~

 h100p | 2010.09.21 22:04

andy様 スラッカー様 sarusaru様
コメントありがとうございます。
これからも応援宜しくお願いします。

Comment



Comment