2008-01-05

開放系としての生物界では物質は循環し、エネルギーは散逸する

昨年から本格化した『性の探求シリーズ』今年も新たな発見に向けて追求を続けたいと思います。昨年はいろんな書籍にもチャレンジしたのですが、やはりドーキンス流の個人主義生物学の悪影響が思考を妨げているように思われます。そんな中、そのようなドグマにとらわれることなく生命の本質にアプローチしようとする学者さんも少数ながらおられます。
福岡伸一先生http://www.biological-j.net/blog/2007/06/000228.html 
武村政春先生http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=162026 
牧野尚彦先生http://www.biological-j.net/blog/2007/08/000268.htmlそしてリン・マーギュリス先生http://www.biological-j.net/blog/2007/12/000344.html です。
特にマーギュリスは、ドーキンス流の個人主義生物学を真っ向から批判し、同時に彼らがとらわれている神学的思考から自由になって生物学と物理学の断層を乗り越えようとする、本物の探求者ではないでしょうか?そこで今日はマーギュリスによる『性とはなにか(せりか書房・2000年1月刊)』及び『生命とはなにか(せりか書房・1998年4月刊)』から、『開放系としての生命』に関する考察を紹介したいと思います。ポイントは『開放系である生物界では物質は循環し、エネルギーは散逸する』という自然の摂理を明らかにしてくれている点です。
まずは、マーギュリスの個人主義生物学批判からはじめましょう。

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>自己が自己であるゆえんは、情報としてそれが閉じているからである-われわれは自分たちを他とは不連続な実体として考え、個別のものとみなす。われわれはその相対的独立性と他者との違いの証明として、自分たちに名前をつけ、その名前を個別の番号や称号で飾り立てる。このような閉鎖性は、個人主義というアメリカ精神によって一層助長される。しかし、このような気風は、われわれが開放系であり、存在自体があれわれを通じて流れるエネルギーと物質の流れに依存しているという、生物学上の基本的現実へのわれわれの認識を妨げかねない。しかも、性的活動においては、われわれは熱力学的開放系であるばかりでなく、情報理論的にも開放系である。われわれの存在は、DNAを組み合わせることに依存しているからである。
そしてマーギュリスはこの『開放系としての生命』という概念をさらに進めて、熱力学との整合を図ろうとする。熱力学第二法則では『エントロピー(無秩序)は増大する』実際、生命はエネルギーを消費し、老廃物を廃棄する。生態系のレベルでは水質は汚染され、大気は汚染される。
>生命は本来、適応的であり、進化する系―老廃物を生体物質として再利用する方法を見つけるほどに巧妙で、有能な系―ではあるが、局所的秩序を高めれば全体として無駄を生み出すという熱力学的拘束からは免れることはできていない。
>しかし、第二法則が述べているのは、閉鎖系ではエントロピーが増大するということだけであり、地球は閉鎖系ではないのである。・・生命は太陽にも、季節の移り変わりという環境にも開かれていることは間違いがない。生命の複雑さ―その一部は性に依存しているのだが。その部分を含めて―は、太陽が存在し、動力を提供する限りは増大することが可能である。

ここでマーギュリスは、生命活動→地球温暖化→地球破滅という発想の中にある生物と無生物の対立という安易な生命理解に真っ向から挑戦する。
>人工衛星からの観測で示されるのは、生命に富む地球表面の環境が最も得意とすることは冷却である。・・高度に統合された何百万種という有性生物種からなる、アマゾン熱帯雨林のような成熟度と生物多様性の高い生態系は、何といっても最良のクーラーなのである。根を通じてくみ上げた水分を葉の表面から蒸発させる、蒸散作用というプロセスのおかげで、熱帯雨林は効率の高い自然のエアコンであり・・・。おもしろいことに、樹木の葉の気孔とよばれる開口部から出される、イソプレノイドという揮発性物質は降水を促進する。・・イソプレノイイドは雨滴が凝縮するときの核になる。
>(生物多様性によって構成される熱帯雨林は)樹冠の上の天候という無生物現象をも支配している。従って、物理学的観点に立てば、せいぶつはある開放的熱力学系の一部なのであり、その系の及ぼす影響は、皮膚、樹皮、殻などで外科的に閉じられた中身をみるだけでは理解することができない。
>生命も性もエネルギー世界という開かれた文脈の中でのみ理解が可能である。自然はそれ自体で複雑なシステムを組み立てて圧力や温度の勾配を解消することができる。・・生命が存在する秘密はここにある。生命は複雑な遺伝の機構や魅惑的な歴史をもつだけではなく、太陽がもたらした勾配を打破するという、熱力学上の一つの手段としても存在している。ただし嵐のシステムが大気中の圧力差を二、三時間のうちに解消するのに対して、生物は太陽のつくった勾配を40億年かけて解消しつつある。

>ここでいう勾配とは、熱い核をなす太陽と冷たい、冷めた宇宙空間の間にある温度の違いのことである。局所的にみれば、さまざまな動きがあるが、細胞も、個体も、そして全体としての生物圏も、全ては太陽のもたらした勾配を打破する方向へ向かっている。
開放系としての生命は、エネルギーを消費するように出来ている。そしてその結果、様々な老廃物を排出する。しかし、ここでもうひとつ忘れてはいけない点がある。エネルギーは地球外にある太陽から無限に降り注がれるが、物質は地球内において閉じているということだ。
>隕石の襲来を別とすれば、地球上の生物がつくるシステム(生命圏)は一つの閉鎖系である。宇宙線と太陽放射光はこの系に入ってくるが、一般に物質は入ってこない。
しかし、個々の生物はエネルギーだけでなく物質についても摂取と排出の両方を行う。つまり開かれている。そして排出=排泄は必然的に汚染行為である。ここに生命界に循環が存在する意味がある。
>生態学者ユージン・オダムの言葉を借りるならば、『開放系である生物界では物質は循環し、エネルギーは散逸する』
>現代の人類は、自然への謙虚さや敬意のつもりで、人間が地球を汚染していることを憂いている。しかし、それは大して不自然なこととはいえない。完全に自然な青緑のバクテリアによって引き起こされた汚染の危機は、最近見られる危機よりもはるかにひどいものだった。
>しかし汚染が自然であれば、再利用も自然である。進化の中で最大の転換は、かつて致命的だった汚染の形態-酸素-を必要な資源に変えてしまったことである。
>バクテリアは、最大の汚染者であるばかりではなく、最大の浄化者でもあった。酸素をエネルギーに使う私たちの化学的な能力は、バクテリアからきたものである。

ある意味で太陽がもたらしたエネルギーを消費する行為は生命の本質であり、それ自体は太陽がなくなるまで永続的に繰り返されるのであろう。そしてそれ故に排出=汚染も必然的行為である。それすらも自然の摂理と理解する必要があるのではないだろうか?しかし、だからこそ、再利用すること、循環させることが不可欠なのだ。その点、石油という太陽と植物たちがもたらしたエネルギーを私たちは、大量に消費し、その結果、まったく循環できない廃棄物=人工物質として、地球に(そして身体の中にも)掃き溜めてしまっている。エネルギー→温暖化、よりもこの、本来、循環すべき物質を循環できなくさせてしまっていることこそが、自然の摂理からみたときの最大の問題ではないだろうか?エネルギー→温暖化だけを問題にしていたのでは、おそらく石油の代替エネルギーとして原子力の使用はますます広まり、それこそ循環のしようのない放射線汚染物質だらけの世界ができあがる。これこそが最大の自然の摂理への反逆である。
20世紀はエネルギーの消費=エントロピーの増大(それ自体は自然の摂理の一部ではある)にばかりかまけてきた。しかし21世紀の科学技術は、もうひとつの自然の摂理である、循環可能な廃棄システムの構築にこそ、着手すべきなのではないだろうか?もしそれをなさないのならば、汚染者は自然によって淘汰されるのみであろう。

List    投稿者 staff | 2008-01-05 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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