2007-05-09

事実って何?「“実証主義”にそむくことがこわいようでは未知の領域に踏み出す資格はない」

ご無沙汰です。雅無乱です。

全24巻の大著である『世界の歴史』の第1巻「人類の誕生」(著者:今西錦司ほか 河出書房)を古本屋で手に入れた。
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“はじめに”から読み始めると、「事実とは何か?」についての面白い記述がある。

読む前にこっちもお願い!
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“世界の歴史”といっても、それが人類の歴史である限り、有史以後なとどいうのは、わずかに5000年間のできごとにすぎない。本巻で詳しく述べるように、人類はすでに200万年前にはりっぱに人類として生活していたのであり、人類の祖先がはじめてこの地上にあらわれだしたのは、さらにさかのぼって、1400万年も前のこととも思えるのである。この悠久な過去に目をつむって、人類の歴史をたった5000年の歴史であるかのようにすりかえたのは、いったい誰の責任であろうか。(中略)
ここまでさかのぼれば、歴史学者や考古学者が金科玉条にしている“実証主義”だけでは、もはやまにあいかねることを、あらかじめ知っておく必要がある。実証主義ももちろんけっこうなのではあるけれども、それはどこまでもわたしたちの学問なり研究なりに対して、わたしたちが設定したひとつの方法であり、ひとつの指針であるにすぎない。そうとすれば、その方法なり指針なりの限界にきて、もはやそれにたよっていたのでは研究も進まず、問題も解けないということになったとき、もうそんな役にたたなくなったものはさっさと捨てて、もっと有効な方法なり指針なりを、あらたに設定することこそ、ほんとうに学問なり研究なりを生かす道ではないだろうか。つまり、“実証主義”にそむくことがこわいようでは、この未知の領域に踏み出す資格はないのである。(『世界の歴史』第1巻「人類の誕生」今西錦司ほか著 1989年文庫版初版・河出書房 11~13頁)

このブログに書いてあることや、このブログの基になっている認識群(根概念)が書かれている『実現論』(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=0&t=0)に書いてある事について、「それは実証されていない」「それは仮説にすぎない」と言って躍起になって攻撃してくる方が時々いる。私はそれに対して、「そうやで、その通りやで」と言うことにしている。「それの、どこが問題なんや?」と。そんなことを言い出せば、現実は全て実証されていない仮説でできあがっている(世の中に絶対不変の事実がある、なんて思っている人は、よほどの妄想家か何らかの宗教を信仰している人だけではないだろうか)。

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>この場に参加されている多くの方々も、現代社会の行き詰まりと大転換の予感があるからこそ、現代の支配観念に根本的な疑問の目を向け、できる限り固定観念を捨てて、現実を直視し、事実の追求に向かおうとしているのだと思います。まして、全文明史を覆すほどの大転換期だとすれば、歴史を遡って原始人類やサル社会や生物原理にまで目を向ける必要も出てくると思われます。しかし、それらは大部分が未明の領域であり、その解明の為には、固定観念に囚われることなく事実を素直に認める柔軟な頭と、大胆な仮説の提起が何よりも大切になります。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=967 四方さん)

ここにあるように、現在の時代の行き詰まりや閉塞感の原因を探るためには、どうしてもいわゆる“文明(=私権時代)”の歴史だけでは事足りず、人類史、生物史をさかのぼって、人間の意識構造やその人間が創る集団や社会の構造を明らかにする必要があると、私も強く感じる。そのためには、ほとんど明らかにされていない、文明以前の人類の歴史を紐解くことは不可欠だと思う。

これまで、ほとんど明らかになっていないのだから(しかも、すんでしまった過去の歴史を再現できるはずもないのだから)、仮説を立ててそれが現実に矛盾なく整合するなら、すぐにでも現実に適用するだけである。

もちろん「ええかげんな情報でいい」と言っているわけでは決してない。

そんなことをすれば、こんなふうに捏造のオンパレードになってしまう^^;)
http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/08dab17231d7a832599f9b05c659f870

あくまで、現実の奥に潜む事実を掘り起こし、検証する必要はある。

しかし、神様じゃぁあるまいし、実際に世の中の全てのことを知ることなんてできるわけがない。我々は現実に生きていく上で、仮説を積み重ねてそれを使いながら適応していくしかない。事実、そうやって人類は生きてきた。「それは確認された事実じゃない」「それは仮説にすぎない」と言う方は、別のもっと整合する(現実に使える)仮説を出してくれ。そっちの方が現実に使える仮説なら、私は迷わずそっちになびくよ。

だから批判だけに終わらず代わりの仮説を出して欲しい。「“学者”や“専門家”はこう言っている…」とか他人のふんどしで相撲を取って、自身の考えは述べず追求もせず、批判のための批判を繰り返す輩にはほとほとウンザリである。

たとえば、直立二足歩行をはじめたばかりの人間の女性は、生まれた子どもをどのように育てたか、ということを考えてみよう。するとそのためには推理の材料として、類人猿の育児法や現存する狩猟採取生活者の育児法はいうまでもなく、そのほかに、生理、生態、心理、社会にわたる広い知識が必要になってくる。そういうものをあれこれかみあわせてみて、どこにもくいちがいや矛盾がおこらなければ、そこにはじめて、こうでなければならないというひとつの仮説が、推理によって成立したといってもよい。こうして成立した仮説は、もちろん事実でなくて、事実に対する第一近似にすぎないであろう。しかしこの第一近似は、わたしたちの推理さえすすめば、事実にむかって無限に接近してゆくことができる。(『世界の歴史』第1巻「人類の誕生」今西錦司ほか著 1989年文庫版初版・河出書房 13~14頁)

現実に生きている我々は、世界情勢ウォッチングを楽しんだり歴史研究を趣味(?仕事?)としているような学者とは違うのであって、迫ってくる現実を前に「これは実証されたわけではない。実証されるまで待ちましょう」といってボケーっとしているわけにはいかない。

上の引用の、“初めて子どもを育てようとしている初期人類の女性”と同様、過去に存在した適応形態や、現存するサルや先住民族の適応形態、さらに「生理、生態、心理、社会にわたる広い知識」を総動員し、まさに使えるものならすべて使って、目の前の現実を生きていく他ない。

ちゃんと未来予測ができて、その予測が実際に現実になっていれば、要するに「使える認識」であって、そのことこそが現実を生きる我々にとって重要なのである。

“専門家”や“学者”の世界ではそれではだめなのかもしれないが、素人の我々にとっては、現実の世界で使えるかどうかが全てであり、例え高尚な“学者”や“専門家”のアリガタイ知識であっても、現実に使いものにならなければ何の価値もないのである。

のこのことマスコミの要求通りにコメントを垂れ流しているような御用学者や、新しい仮説の批判ばかりに躍起になっておられる方々は、この今西錦司の言葉についてよくよく考えてみることをお勧めする。

List    投稿者 nanbanandeya | 2007-05-09 | Posted in ⑧科学ニュースよりNo Comments » 

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