2007-03-26

神経伝達物質の作用が、猿・人類の同一視を可能にした?

人の脳内には、様々な不全感から抜け出すための麻薬回路が形成されています。
今回は「ランナーズ ハイ 」の原因とも言われている、オピオイドについて調べてみました。

 脳内麻薬様物質(オピオイド)は交感神経系の興奮によって,ギャバ神経系から分泌されるエンケファリン,エンドルフィンなどを指します.オピオイドは阿片などの麻薬に極めて近い構造をもちます.オピオイドの大量分泌により,精神活動の麻痺や感情鈍麻といった状態に入ります.これは,闘争も回避もできない深刻なストレスにさらされた生物に「最期の救い」をもたらします.精神活動の麻痺や感情鈍麻によって,完全な降伏と受身の態勢をとり,現実感のなさによって生物は「静かに捕食者の餌食となる」のです.オピオイドの過剰放出は大脳辺縁系の扁桃体,海馬などにダメージを与えることで知られています.扁桃体に損傷を受けた個体は「恐ろしいもの」「いやなもの」に直面しても避けようとしなくなります.また,マラソン中にオピオイドが分泌されることはわりと有名でマラソンによってオピオイドが分泌された状態のことを「ランナーズ・ハイ」と呼びます.オピオイド濃度の上昇は,他にも手術,接食障害者の嘔吐などで確認されていて,また,リストカット,車での暴走等の自傷行為によってもオピオイドは上昇するそうです.

http://www.d6.dion.ne.jp/~hiudent/supri.htmlより
なんか、行き過ぎると怖いなぁ~、という印象を持ちますが、脳進化上とても重要な要素なのではないか?と思いました。
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と言うのも、実現論に示されている次の一文を読んでみてください。
実現論 ニ.サル時代の同類闘争と共認機能

 かくして、樹上逃避機能を獲得したが故に死なずに、かといって縄張りもなく中途半端に生き残ることになった原猿たちは、本能が混濁して終う。しかも彼らは、絶えざる縄張り侵犯による過剰な緊張や怯えや飢えの苦痛など、全ゆる不全感に恒常的に苦しめられることになる。
~中略~
しかし、原猿がぶつかったのは単なる本能の限界ではなく、絶えず生存の危機に晒され不全感覚が刺激され続けるという意識的な極限状態であり、しかも本能そのものが混濁するという本能の不全(縄張り闘争には勝てないのに、死なずに辛うじて生きている)故に、本能ではどうにもならない(従って本能を超え出るしかない)という未明課題だったのである。  
   彼らは恒常的に飢えの苦痛に苛まれ、いつ襲ってくるか分からない敵=首雄の攻撃に怯えながら暮らしていたが、それらの極度な不全感が生命の根源を成す適応欠乏を強く刺激し、生起させた。加えて、恒常的に強力な危機逃避回路が作動する事によって性闘争が抑止され、それによって、モグラ以来性闘争物質によって封鎖されてきた追従本能が解除された。かくして、不全感の塊であった境界空域の弱オスたちは、適応欠乏に導かれて強く追従本能に収束する。しかし、互いに追従し合っても、誰も(縄張りの確保あるいは不全感の解消の)突破口を示すことは出来ない。そこで、わずかに可能性が開かれた(=不全感を和らげることのできる)親和本能を更に強化し、追従回路(アドレナリンetc.)に親和回路(オキシトシンetc.)が相乗収束した依存本能に収束してゆく。つまり、「縄張りを持たない敗者たちが互いに身を寄せ合う」。  

恒常的な不全に晒されている中で、性闘争抑止、そして依存本能への可能性収束。さらに、

   不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。こうして、依存収束⇒期待収束し、互いに相手を注視し続ける内に、遂に相手も同じく依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに相手の課題=期待を自己の課題=期待と同一視して理解し合うに至った。自分以外は全て敵で、かつ怯え切っていた原猿弱者にとって、「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」という事を共認し合えた意味は大きく、相方に深い安心感を与え、互いの不全感をかなり和らげることが出来た。この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(未解明だが、おそらくは快感物質βエンドルフィンを情報伝達物質とする)共感回路の原点である。この安心感+が、相手+⇒仲間+共感を形成し、原猿たちは不全感の更なる揚棄を求めて、より強い充足感を与える(=得る)ことのできる親和行為(スキンシップなど)に収束していく。そこでは、相手の期待に応えることが、自己の期待を充足してもらうことと重ね合わされ同一視されている。つまり、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。こうして、不全感に苛まれ本能が混濁したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共感充足へと収束することによって、はじめて意識を統合することができた。これが、サル・人類の意識の、第一の統合様式たる共感統合の原基構造である。

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カードはこちら。
ん~、脳進化のすさまじさと同時に、危機的状況に陥るほど、劇的な進化によって適応してきた先人達の偉業に、改めて感謝の念が沸き起こってきます。
一度獲得(顕在化)した能力であっても、目の前に立ち塞がった壁があまりにも大きく、現状のままでは乗り越えられないと解ると、あらゆる危機逃避回路すらも遮断し、全的な肯定視(ノーガード状態)へと立ち戻る。そこで、DNA・記憶の深層に眠っているあらゆる情報(脳回路ネットワーク)を相乗効果によって呼び覚まし、さらに可能性収束する事で新たな能力の獲得へと突き進む。
このように考えると、私権の可能性が終焉した現代の人類に見られる、自然回帰・本源回帰の現象の中にも、大きな観念進化の可能性が垣間見えてきます。
ただし、前提として『今のままではどうすることも出来ない不全』という外圧を、しっかりと対象化しない限りは、全的な肯定視へと至ることは出来ない、という認識も忘れずに覚えておきたいところですね
by kawai 😀

List    投稿者 kawait | 2007-03-26 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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