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生命とは動的平衡にある流れである3  ノックアウトマウスから見る生命とは?

前回2 [1]の続き。前々回1 [2]に書いたように、分子生物学は、生命体をミクロなパーツからなる精巧なプラモデル、すなわち分子機械に過ぎないと考え、それを巧みに操作することによって生命体を作り替え、“改良”することも可能と考えた。

そのため、たとえば分子機械の部品をひとつだけ働かないようにして、生命体にどのような異常が起きるかを観察すれば、部品の役割をいい当てることができるはずと考え、遺伝子改変動物が作成されることになった。“ノックアウト”マウスである。(注:ノックアウト=ひとつの部品情報が叩き壊された)

今日は、重要な働きをしていると考えられているさまざまな部品をノックアウトしたマウスの多くが、予想に反して、何の異常もなくすくすくと成長していく実験を通して、生命とは「時間に沿って折りたたまれ、二度と解くことができない折り紙」であり、機械的・操作的に扱うことの不可能性を見ます。福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(2007年)より。(下の写真はウキペディア [3]より。)

ノックアウトマウス [4]

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★あるパーツの役割を知るには?

ノックアウト実験のために、生体内に散在する何億もの分子を一斉に「存在しない状態」にすることは不可能である。よって出発発点である受精卵に遡るしかない。受精卵から出発したすべての細胞は同じゲノムのコピーを受け継ぐから、全身の細胞から特定のタンパク質の存在を消すことが可能となる。ES細胞の発見が、高等多細胞生物の遺伝子ノックアウトを可能にした。(このドラマは別の機会に紹介したい。)

●ノックアウトしたのに・・・

膵臓の消化酵素分泌細胞に存在するGP2タンパク質や、脊椎動物の脳細胞に存在するプリオンタンパク質をノックアウトした実験では、マウスは正常に誕生し、成長後も健康そのもの、何の不具合も見つからなかった。いずれのタンパク質も重大かつ必須の分子と考える仮説が間違っており、あってもなくてもいい分子なのだろうか?

●生命は機械ではない

私たちには何か重大な錯誤と見落としがあったのだ。重大な錯誤とは、端的にいえば「生命とは何か」という基本的な問いかけに対する認識の浅はかさである。そして、見落としていたことは「時間」という言葉である。

生命とは、テレビのような機械ではない。遺伝子ノックアウト操作とは、基板から素子を引き抜くような何かではない。私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流れる。後戻りできない一方向のプロセスである。

様々な分子、すなわち生命現象をつかさどるミクロなジグソーピースは、ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたピースと、それまでに作り出されていたピースとの間に、形の相補性に基づいた相互作用が生まれる。その相互作用は常に離合と集散を繰り返しつつネットワークを広げ、動的な平衡状態を導きだす。一定の動的平衡状態が完成すると、そのことがシグナルとなって次の動的平衡状態へのステージが開始される。

この途上の、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現しなければ、動的な平衡状態は、その欠落をできるだけ埋めえるようにその平衡点を移動し、調節を行おうとするだろう。そのような緩衝能が、動的平衡というシステムの本質だからである。平衡は、その要素に欠損があれば、それを閉じる方向に移動し、過剰があればそれを吸収する方向に移動する。

●動的平衡系の許容性

とはいえ、あるピースの欠落が決定的なダメージをもたらし、動的平衡系がその影響を最小限にしようとするものの、どうしても修復しきれないときには、発生のプロセスは次のステージに進むことができず、その時点で死を迎える。

実際、過去、試みられた遺伝子ノックアウト実験は、個体に何の異常も起こらないものが多々ある一方で、誕生を迎えないまま胚がその分化を止めてしまうような致命的なケースも多数あった。これが示すことは、その遺伝子が、発生上欠くことのできない重要なピースであることだけである。どのように必要とされるのか分からないままプログラムは閉ざされてしまうのである。

一方、欠落に対してバックアップやバイパスが可能な場合、動的平衡系は何とか埋め合わせをしてシステムを最適化する応答性と可変性を持っている。それが“動的な”平衡の特性でもある。これは生命現象が時に示す寛容さあるいは許容性といってよい。平衡はあらゆる部分で常に分解と合成を繰り返しながら、状況に順応するだけの滑らかさとやわらかさを発揮するのだ。

●解くことができない折り紙

機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことができない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。

生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。

私たちは遺伝子を一つ失ったマウスに何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡がもつ、やわらかな適応力滑らかな復元力の大きさこそ感嘆すべきなのだ。

結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。

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