- 生物史から、自然の摂理を読み解く - http://www.seibutsushi.net/blog -

君もシャーマンになれるシリーズ31(最終回) ~人類は「幻覚」をみて、やがて「精霊」を。そして「観念」を生み出した~

  精霊的・・・ [1]

古代部族民 [2]

 前回の「古代人は「幻覚」をみていた [3]」に続いて、今回は、われわれ人類が生み出した「観念」について考えていきます。

 今までみてきた人類の脳の進化と構造(機能)から、過去の経験にとらわれずに創造的でありながら自律的かつ自発的に脳が活動する「観念」は、脳回路が暴走的して生じる「幻覚」が起点となって、進化上適応的な脳回路として生み出されたと考えられます。自然に対してあまりにも弱い存在であった始原人類における適応とは、自然への適応に他ならず、人類の人類たる脳回路が自然に適応した進化を遂げたことは間違いありません。

自然に対して適応的な脳回路とは、本能を超えて、自然の「摂理」、「秩序」、「法則」に適応することに他ならず、人類が自然そのものを対象化し、自らが自然の一部であることを認識して自然と一体化することに他なりません。

今までの流れを整理しながら、暴走して「幻覚」をみる脳回路が(幻覚をみながらも)秩序性のある脳回路を形成した時のことを考えてみましょう。

 

 木から落ちたカタワのサルは、外敵から逃れるために食料の少ない峡谷の洞窟に隠れ住みながら、危険を冒して食料確保に奔走していました。他の動物が残した骨を拾い集めては骨髄を啜(すす)るという慢性的な飢餓状態にあった始原人類の脳は、ビタミンC不足から神経伝達物質であるドーパミンをノルアドレナリンに転換できずに、ドーパミン優位の脳になっていったと考えられます。生死に関わる極限状態でドーパミン過多となった始原人類の脳は、現在の統合失調症や生命の危機の際に見るのと同じように幻覚を見ていたと考えられます。始原人類のドーパミン優位の脳が幻覚をみることは、外敵や危機への恐怖を乗り越える原動力ともなり、苦痛から解放されることによって生への活力への転換が促され、弱者たる人類が生き抜く可能性となっていたと考えられます。このことが進化適応的であったが故に今まで人類が生き延びてこられたのでしょう。

 現在人がみる幻覚には強い「感情」と「感覚」が伴っています。始原人類が体験した幻覚も、「恐怖」、「畏れ」、「共感」、「多幸感」といった複雑で強い感情や感覚を増幅させたことは想像に難くありません。同時にドーパミン以外の様々な脳内伝達物質とそれに関連した脳回路も強化していったと考えられます(例えば、エンドルフィンは多幸感を、オキシトシンは仲間への信頼を強めます)。思考的な繋がりを持たない観念以前の脳による幻覚体験とは、これらの「感情」や「感覚」が中心だったと考えられます。

 幻覚を見る脳が様々な「感覚」や「感情」を生起させることで、それぞれの結びつきが生まれてきます。恐怖感とそれを生み出す対象との関係、多幸感とそれを生み出す対象との関係、安心感とそれを生み出す対象との関係、畏れや共感を生み出す対象との関係など。それはやがて、仲間や外敵や自然という対象が安心感や恐怖や畏れという感情や感覚と結びつき、(脳内で)対象存在の意味を内在することになります。

 「感覚」や「感情」の意味を観念的に捉えられない観念以前の脳は、これらの強い「感覚」や「感情」が生起する体験を通して、やがては『自然』『摂理』『秩序』『集団』『仲間』という概念の原型となる「観念感覚」を見いだしていったと考えられます。ここでいう「観念感覚」とは、「(言葉にはならないが)そういうものの存在や意味を感じとる」という次元を指します。現代人が何かを発見する際に、確信的にその可能性を信じて追求に向かう感覚に共通するものです。

「観念」を持たない彼らが感じ取った“所在不明”のそれらの「観念感覚」を、脳内で“理解可能”なものに置き換えて見た「幻覚」、それが『 精 霊 』だと考えられます。この「観念感覚」を具象化した『精霊』は『 観 念 』そのものであり、観念の始まりが『 精 霊 』だといえます。

 『自然』『摂理』『秩序』『法則』『集団』という意味を深く内在した『 精 霊 』は、それを措定した者にしか見えないものでありながら、自らの内面に自然や仲間に通じる避けがたい”意味”を内在させているが故に、誰か(仲間)と共有せざるを得なくなり、強い共有欠乏と発信欠乏が生起することは想像に難くありません。始めは身振り手振りや単発の発音によるのでしょうが、絵を描いたり物を使って形作るなど、あらゆる手段で「精霊の存在とその意味するモノ」を表現したことでしょう。同じような境遇にあった仲間も同じような観念感覚を得ていた可能性が高く、「意味」を伝え合い、共有することには、それほどの時間はかからなかったかも知れません。

 脳が造り出した、物としては実在しない「意味、概念」を共有した人類。これがまさに、『 観 念 』の登場です。

 始原人類が見いだした「自然の摂理」や「自然法則」は、未来の状態を予測するものであると同時に、「秩序」や「自然や人のありよう(道徳観)」をも意味する概念となります。

 ここで重要なのは、『観念』は、人類が『自然の摂理とその秩序、法則を解明するために登場させた』という点にあり、『観念』はその発生から『自然や宇宙を対象化している』という点にあります。観念はそのために生まれ、今現在もそのために使われるべきものなのでしょう。

理解不能なモノに遭遇した際は、脳内で理解可能なものに置き換える幻覚回路の構造がそのまま観念回路の構造と一致します。違いは、脳が暴走するか、一定の「秩序」を保ちながら回路を開くか、にあります。古い脳に由来する潜在思念上の「欠乏」が起点となっていることから、人類の観念の起点も「自然」と「仲間」にあるいえるでしょう。観念を生み出した始原人類がそうであったように、現在においても、人類総体の不全からの解放と可能性への収束が本来的な観念の発動要因であるといえます。

 

 以下に、変性意識状態、統合失調的状態で捉えられる『精霊』がどういう「意味」を内在したものなのかを例示する記事を引用します。「巫病」と思われる「分裂病的体験」を経験した方による非常に貴重な記述です。

 「夢幻的世界」へ [4]  狂気をくぐり抜ける より

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(前略)

いずれにしても、これらは(物理的なものであるかのように現れることもあるが)、一つの「霊的存在」であることには疑いがなかった。そして、ここに来て、それらが、前に読んでいたカルロス・カスタネダのいう「精霊」なのではないかという考えが浮上した。

 当時、「シャーマニズム」というものは少しだけ知っていたが、そこに出てくる「精霊」とか「霊的存在」というのには、既に近代人として陳腐なイメージをもってしまっていた。ただ、カルロス・カスタネダの場合、西洋人としてアメリカインディアンのシャーマンであるドンファンのいう「精霊」の世界を、自ら体験して、詳細に記述しているのである。

 それは、何か陳腐なものというよりも、恐怖に満ちた「未知の力」として、訳の分からないままに具体的に描写されている。その描写は、今自分の体験している「世界」とかなりピタリと符合すると思えたのである。(それは、後になるほどさらにそうなってくる)

 実際、それは「古い」どころか、「宇宙人」ともみなし得るほど、「宇宙的」な広がりと「現代的(テレビの例でみたように、高度なテクノロジーとも決して疎遠ではないと思わせる)」な要素にも満ちている。そのようなものとしてなら、「精霊」として理解することもできると思ったのである。(実際、今も改めて、分裂病(的)体験と「シャーマニズム」の特に「イニシエーション」の体験とは、最も近いのではないかと感じる。)

 但し、カスタネダがほとんど「善悪」の観念抜きにそれらを描き出そうとしていたのに対して、私はどうしても、「善悪」とか「私に対して味方か敵か」という観点から、それらを見てしまうということはあった。それで、大枠的にいえば、「アール」及び「ルーシー」=「悪」または「敵」である「精霊」(悪魔)。「背後の存在」=「善」または「味方」である「精霊」(天使)。「アニマ」=中間的な「精霊」という区分けになって行ったのである。

 一方では、想像力が非常に活性化し、それが独自に展開して、「宇宙的」あるいは「神話的」な内容のイメージとして現れるということが続くようになった。これは、それまでの、幻聴や幻視のように直接その場に他者のものとして現れるというよりも、私自身の心の奥から沸き上がって来ていることの自覚はあるもので、私は、その展開をただ受動的に見ているのである(「思い出し」というのは、過去の出来事に絡むのではあるが、むしろこれと近いものである。)

 ただ、これらの内容もまた、「シュール」というか、多様な「意味」が折り重なるように圧縮されている感じで、容易には言語的に表現し得ないものがある。しかし、森山も第3段階の特徴として、「宇宙的、霊的内容の世界が必ず現れる」と言っているし、ユングも分裂病の大きな特徴として、この「宇宙性」(または「神話性」)を挙げているので、やはり少しは触れておきたい。

 まずは、「地球」ということが大きなテーマとして浮上してくる。「地球」にまつわるさまざまなイメージが展開するとともに、私自身がその「地球」そのものになる(一体化する)ことを味わうのである。これには、物理的な「音」が自分の内部から直接のように響くということがあり、それがさらに発展して、音が、もっと底の地球の内部からのように反響するようになって行ったということも関係している。そこで、私の世界は、まずは地球大に広がり、地球と同一化することをイメージ的に経験するのである。

 (中略)

 さらに、このようなイメージは、「地球」から「太陽」さらには、なぜか「土星」へと広がっていった。それぞれ、「神話的」な内容の「物語」が展開し、またそれと「同一化」したと感じることがあった。特に「太陽」では、自分が「太陽」であり、「アニマ」が「月」であるというイメージから、「太陽」と「月」を巡る様々な宇宙的出来事と、それが地球の歴史や現在の文化にも反映しているかのような内容のものが展開された。

 また、太陽と同一化したと感じたときには、自分が意識を強く張り詰めると太陽が強く輝き、それを弱めると輝きが弱まるということをはっきり体感し、恐ろしくなるということがあった。

 この点についても、これを「自分」なるものが「太陽」と同一化(拡大)した、あるいは、自分は太陽を支配できる、などと受け止めてしまうと、端的に「誇大妄想」となる。この状態では、日常性をかけ離れた様々な宇宙的イメージが現れ、それは連想などにより止めなく発展して行くので、「誇大妄想」の元はほとんど無限にあるといえる。第2段階の「幻聴」段階での「問題」が、「迫害妄想」であるとすれば、この第3段階の「夢幻様状態」での「問題」は、「誇大妄想」なのだと言える。

 私自身、かなり「誇大妄想」的な発想も持ちかけたが、それは様々な存在との関わりで、自分自身が「影」に過ぎないことを思い知らされることなどを通して、そう長く続くものでもなかった。

 実際には、この「同一化」は、むしろ「自分」という境界が揺らぎ、あるいは外されたことで、自己と外界があるレベルで「融合」した(ある意味、本来の「つながり」の状態が浮上した)と感じることから、「一時的」に起こるものといえる。それは決して単純な錯覚ではなく、そこには、確かに厳とした「リアリティ」、それも外界との区別が前提である「日常的リアリティ」よりも、直接的で強烈なものがある。ところが、一方で、それは、それまでの「自己」という拠り所を失っていることの、「補償」として作用する面もあるといわねばならない。

 いずれにしても、それを端的に「自己」そのものの拡張と捉えるのは、「自己肥大」以外の何ものでもないことになる。そこで、このような微妙なイメージの受け止め方については、後にユングなどを参照しながら、再びとりあげたいと思う。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「精霊」は、自然や宇宙と「一体化」・「同一化」した感覚であることや、心の奥から湧き上がってくるものであることが伝わってきます。同時にそれは、「自分」という境界が揺らぎ、自己と外界が「融合」し、「繋がる」状態であることを示しています。

 ここまで見てきたことから「宗教」を捉えなおしてみると、多くの宗教家は「精霊」に相当する「幻覚」をみて、様々な宗教観を得てきたであろうことがわかります。注意すべきは、精霊は、本来、自然と人間が一体となって初めて「精霊」たり得るということです。そこが不十分であれば、人(脳)の内なるものが表象した「精霊もどき」をみることになります。それは、「幻覚」と大差のないものであるばかりか、ヘタをすると自我に毒された都合のよい「幻覚」を「精霊」や「神」だと思い込んでしまっている可能性があります。また、彼らが「精霊」をみて得られる「観念感覚」をどの程度言葉化できているのかが疑問としてでてきます。ましてや、弟子達が言い伝えてきたものがどの程度正確なものなのでしょう。

現代においては、自我からの脱却が「精霊」を措定する条件であり、それ無しに見る「幻覚」は妄想に過ぎず、いずれは自我という暗黒(悪魔)に絡め取られてしまうことでしょう。そして、現在においては、自我と染みついた価値観念から完全に脱却した者のみが、シャーマンたり得るのです。

シャーマン1

 

シャーマン4 [5] 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自然や宇宙の摂理や秩序、法則を理解するということは、自然や宇宙の”流れ”を理解することと同義であり、そのことによって未来を予測することが可能になります。「シャーマン」は、自然や宇宙を対象化することで、人として進むべき方向性を指し示すことができるのです。現代においては、自然を捨象し、自我や近代的な観念に染まってしまった自分中心の価値観がシャーマンへの道を閉ざしているのでしょう。シャーマンへの第一歩は自我を捨て去り、とことんまで自然を対象化することから始まります。

 「幻覚」から「観念」を生み出し、その「観念」によって集団を導き、統合してきた「シャーマン」

自然と一体化するまで自然を対象化し、自然の秩序法則を追求し、これからの人類の進むべき道を見いだすことが、現代における「シャーマンへの道」なのでしょう。

 

( 終 )

 by cosmos

[6] [7] [8]