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生物の進化と感覚・感情・知性そして意識

生物史をベースに、ヒトの意識構造について調べてみました

語感言語学  言語学試論 [1]「新しい哲学」

http://theory.gokanbunseki.com/index.php?%A5%B3%A5%C8%A5%D0%A4%CE%BD%D0%CD%E8%CA%FD [2]から引用した内容を記載します

【生物の進化と感覚・感情・知性そして意識】

生物が35億年前にいろいろな分子が集まって、分子同士が繋がり、細胞膜を得て単細胞となり、多細胞になり、代謝、自己増殖、核も持って生物へと進化してきた。そして海洋生物、爬虫類が現れ、哺乳動物、猿、類人猿、原人、ついにホモサピエンスが現れた。

 人間を含めた生物の持つ本質的な志向性は、より外圧に適応するように進化してきた。そして哺乳類は「感覚が発達し、感情が発生し、最後に知性が生まれた。構造的には、脳幹などの古脳の上に辺縁系などの旧脳が出来、最後に大脳新皮質が加わったもので、生物の本質とすれば、もっとも重要なのは、本能、そして感覚、感情、最後に知性である。

生物学的には、まず無意識があって、その一部が顕在化されて意識となり、顕在化されないものが無意識として存在するのではないかと思う。したがって、生物としては、無意識が主で、意識は従である。 無意識から意識が浮かび上がるのである。あえていえば、無意識が考えるのである。

(前略)

日本語では、無意識層での思考を‘気がする’と言い、意識層での思考を‘考える’と言い、その両方にまたがっているあたりの思考を‘思う’と言い分けている。意識しか重要視しない欧米では、思考は‘think’しかない。生物である人間も、まず無意識に動かされ、意識がそれを合理化するのである。抑圧されたものだけが無意識ではない。サールもフロイトにたぶらかされているようだ。意識を主と考えてしまう。知を主と考えてしまう。西欧文化の悪癖である。人間を生物とは考えたくない。感情を劣ったものと考える。知至上主義の極みである。自然についても、人間を自然の一部と考えるのではなく、自然を人間に対立するものと考える、偏狭な人間中心主義である。

(中略)

旧脳の上に新しい脳が加わることによって、自分である新脳が同じく自分である旧脳を監視することが出来るようになって、すなわち自分を自分が見ること、自分を客観視することが出来るようになって、自分という意識が生まれた。そして、それが自我にまで肥大してしまった。そもそもは、旧脳が主体である。新脳はその監視装置に過ぎない。その監視装置が主体であるがごとき錯覚をしたのが、知至上主義、人間中心主義の西欧文化である。

(後略)

【コトバの起源についての試論 】

私は意識が顕在化したのは言語によってだと思っている。言語の出来る以前の意識は当然表現することは出来なかった。意識そのものを複雑に操作、演算することは出来なかった。表情、ジェスチャーで表現出来るのは、せいぜい気持である。意識の前段階、すなわち前意識、precosciousの段階である。言語を獲得したことによって初めて前意識が顕在化出来、顕在意識(conscious)、すなわち意識が出来たということを明らかにしたいと思った。言語の無い世界にいる人間がどのように考えるかを知るため、「ヘレン・ケラー自伝」「マリーナ・チャップマン」を取り寄せ読んでみた。

★ヘレン・ケラーは1歳7カ月のとき熱病により突然目が見えなくなり、耳も聞こえなくなった。その彼女が7歳のときサリバン先生に出会い、先生が掌に書いた‘w・a・t・e・r’という文字によってものには名前があることに気付き、それが切っ掛けで言葉を覚え、ハーバートを出るまでになった。突然、無音の暗闇に陥れられた彼女がいら立ちの中で‘light! Give me light!’と乞い求めたことが‘the desire to express myself’、そしてそれを実現するために求めたものが‘some means of communication’であった。もちろん、この時彼女はコトバを知らないのであるから‘light! Give me light!’は‘wordless cry’である。なお、その時の彼女は‘a wordless sensation’を‘a thought’とも言っている。コトバのない感情を‘考え’と言っているのだ。そして、それを現実化する突破口が‘everything had a name.’の気付きであり、いろいろの‘name’を覚えていくにつれ、‘each name gave birth to a new thought.’に繋がっていったのである。ものごとを概念化することを理解したのである。知への大きな飛躍である。彼女の場合、ものには名前があることが分かったことが論理思考へと繋がったのである。そして、論理思考、すなわち論理展開は、コトバから言語への進化であり、知としての意識の始まりでもある。ヘレン・ケラーの場合、最初のコトバは、‘w・a・t・e・r’、という‘a name’、すなわち名詞である。そして、これが彼女にとっての概念化の第一歩であった。

★マリーナ・チャップマンは、5歳の頃人攫いに攫われ一人密林に取り残され、10歳の頃人間社会に復帰した女性であるが、その間ナキガオオマキザルの群れと行動を共にし、仲間のサルたちと会話を楽しむまでになったという。人間のコトバはすべて忘れてしまい自分の名前すら思い出せなくなってしまったという。彼女によると、サルたちは非常におしゃべりで、おしゃべりを楽しんでいるという。そして、彼らの間ではサル語も存在するのだという。ナキガオオマキザルが言語を持っていたのである。彼女が悪い食べ物を食べて苦しんでいた時、仲間の年老いた一匹のサルが、彼女を滝壺の処へ連れて行き、無理やり泥水を飲ませて、胃の中のものを吐き出させて、命を救ってくれたという。しかし、この間この老サルはコトバを発してはいない。すべて行動である。この老サルには知識もある、意図もある。他人の苦しみの分かる‘心の理論’もあるのかもしれない。少なくとも意識はあるのである。しかし、ものごとを指し示すことは出来なかった。コトバはなかったのである。彼女の言うサル語は、ものごとを指し示すことは出来ないが、気持を表現できるコトバなのだろう。言語の前段階、コトバの始まりの一つではないだろうか。

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以上です

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