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日本人(種として)の活力低下は本当か?

日本人の活力低下度合は、先進国の中で最低であるといわれている。

生物の自然の摂理を調べている中で

個の<生命体>の活力低下は滅び(死)として存在するが、自然界で種全体の活力低下は存在するのだろうか?との疑問があった。そもそも生物(集団)は生き残るために全存在をかけている。

実現塾での回答

・活力の評価基準が、お金の獲得競争(私権獲得)に対しての活力を基準にしているからではないか?先進国も最も早く豊かになった日本では、私権獲得競争は活力源にはならない。(納得)

一方で、生命(≒活力)の捉え方が、生物学(近代科学)と我々の実感が異なる事も分かった。

岩崎秀雄著:「生命とは何だろう」より

>自然科学では生命は対象に宿るが、日常的に感得される生命は、対象と僕たちの関係性の中に宿る。

これは、「芸術における生命」の関係と相似である。

>ある絵画作品が、どのような構図や技法、配色で描かれているのか、といった作品分析は、ある意味生物学的に生物の在りようを分析する試みだ。と同時に、作品との関係性において僕たちは「芸術的な体験」をするというわけである。

 

要するに科学で捉える生命は「細胞や遺伝子の分析」であって、現実の生命(≒活力)は人と人の関係(人に対する外圧)の中で生じる。

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Synodosより

https://synodos.jp/science/19883/2

 

生命と芸術の感得様式の親和性:「生命とは何か」という問いをめぐって

 

生物学では、しばしば次のような問いかけがなされる。「生物はどのような物質からできているのだろうか?」「どんな種が存在するのだろうか?」「どのように進化してきたのだろうか?」「どのように環境に適応しながら生きているのだろうか?」いずれも興味深い問いであり、生命科学は多くの知見を明らかにしてきた。

 

たとえば、生物はDNAを遺伝情報として持っており、生体高分子などの化学物質からできている。内と外を分ける細胞膜などを持ち、代謝を行うことで常に物質とエネルギーを外部と交換しながら自律的に増殖したり恒常性を維持する。自己同一性を保ちつつ、常に変異を起こし、進化・適応することで多様性も生み出してきた、といった具合だ。

 

いっぽう、次のように問うこともできる。「僕たちは日常的に生命をどのように感得しているのだろうか?」「生命という概念の哲学的な基盤とは何か?」「時代や文化によって、生命観はどのように異なるのか?」これらの問いは、一般的には「文系的」な問いとみなされ、生物学の教科書には普通書かれていない項目だ。だが、重要な問いであることは疑いがない。たとえば、「活き活きと」とか「活気に満ちた」という表現に見られる躍動的な生命感、死者を想う時の粛然とした気分、深い森の中にいる時の自然への畏怖の感覚、親しい存在や動植物に感じる愛着など、僕たちの死生観に関わる印象は、いずれも「僕たちにとって」生命が何なのかを示している。

 

ここでは、生命は「観察者と対象との情動的な関係性の中で感得されるもの」であり、必然的に主観的で情動的な要素を含む。それに対し自然科学では、一般的に(一部の脳科学・認知科学などを除き)主観性や情動性を排除しようとする。

自然科学では生命は対象に宿るが、日常的に感得される生命は、対象と僕たちの関係性の中に宿るのだ。

 

この見方は芸術に関する古典的な議論と重なる。芸術を対象(作品)に内在的に宿るものとしてみるか、あるいは鑑賞者と作品の関係性の中に宿るものとしてみるのか、という議論だ。ある絵画作品が、どのような構図や技法、配色で描かれているのか、といった作品分析は、ある意味生物学的に生物の在りようを分析する試みだ。と同時に、作品との関係性において僕たちは「芸術的な体験」をするというわけである。

 

生命の問題もこれと似たところがあるのではないか。生命が生物に内在する固有の特性であることと、僕たちが対象との関係性において生命性を感得・体験するということ、その両面に目を向けないといけない。その際に、その両面を常に認識している芸術という立ち位置は参考になるのではないか。生命と芸術を感得する様式には、こうした共通項がある。

(以上転載文)

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