- 生物史から、自然の摂理を読み解く - http://www.seibutsushi.net/blog -

アインシュタイン、その光と影 1

自然はどこまで予測可能か?~完璧な予言者への挑戦

明けましておめでとうございます
この1年間、読者や執筆者のあたたかい支援に恵まれて、本ブログも無事新年を迎えることができました。ありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。
                    
ところで昨年は、『生物史』『分子生物学』を中心に追究を続けてきた本ブログの枠も大きく拡大し、『宇宙』や『素粒子』さらには『精神世界』に関する記事が多数掲載されるようになってきました。『宇宙』『素粒子』などの領域は言わば科学の最先端に位置しますが、現代の最先端科学を切り拓くうえでの最初の一石は、20世紀初頭にアインシュタインによって投じられたことを疑う人は少ないと思います。そこで今年は、アインシュタインについての記事で幕を開けたいと思います。題して『アインシュタイン、その光と影』シリーズ・・・その第1回です。
          
%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%88%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%82%AF%E3%83%AD%EF%BC%89.bmp

アインシュタイン(左)とタゴール(右)

                    


                     
アインシュタインと言えば2つの『相対性原理』が有名ですが、そもそもアインシュタインの心底には何が流れ、何が沈殿していたのでしょうか?。特殊相対性理論・一般相対性理論・・・の順に解読していくこともできますが、それは後の投稿に譲って、今日はもう少し大きな視野でアインシュタインを俯瞰してみたいと思います。最初に以下の2人の対談を読んでみてください。これは、アインシュタインが量子力学者たちとの激しい論争を繰り広げていた1930年に、インドの大詩人にして、西欧の物質文明批判の先鋒でもあるタゴールとの間で実現したベルリンでの対談の一部です。

タゴール:この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も所詮は科学者の見方にすぎません。
アインシュタイン:しかし、真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか? たとえば、私が見ていなくても、月は確かにあるのです。
タゴール:それはその通りです。しかし、月は、あなたの意識になくても、他の人間の意識にはあるのです。人間の意識の中にしか月が存在しないことは同じです。
アインシュタイン:私は人間を越えた客観性が存在すると信じます。ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。
タゴール:しかし、科学は月も無数の原子がえがく現象であることを証明したではありませんか。あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも、無数の原子を見るのか。もし、人間の意識が、月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。

何となくかみ合わないこの会話から皆さんは何を感じますか?
平和主義者にして親日家であり、真理を見極めるためには休まず探求する、そしていずれもノーベル賞受賞者という共通項を持ったこの2人の天才の間には、専門や表現方法を異にする以上の、非常に大きな溝が存在していることが伝わってくるのではないでしょうか。アインシュタインは人間さえも消し去ることができるほどの厳密な客観世界の存在を信じ、タゴールは科学も人間の意識・認識に規定されると考えている・・・、言い換えれば、アインシュタインが究極の唯物史観を完成させようとしているのに対し、タゴールはまさに東洋的な自然調和的な史観の完成を目指していると言うこともできます。これは西欧的自然観と東洋的自然観のぶつかり合いでもあるのです。
そして、多くの西欧科学者の中でもアインシュタインは際立って客観性への思い入れが強いということもよく知られた話です。「科学の役割は自然現象を100%予測可能にすることだ」という彼自身の言葉にもそのスタンスは象徴的に表れています。この対談が行われた当時、アインシュタインとボーアとの間で繰り広げられていた論争も、「未来は確率によってしか予測できない」という(後にハイゼンベルクの『不確定性原理』に至る)量子力学的な態度に対するアインシュタインの批判(あるいは嫌悪感?)が根底にあったのです。

■   ■   ■

「宇宙に描かれた巨大な書物、それは数学や幾何学の言葉で書かれている。これらの手段なしでは、人間は宇宙を理解できない」
これはガリレイの言葉ですが、あやふやな人間の感覚を主観的なものと見なし、主観的な世界と客観的な存在を切り離そうとする態度を語っています。そのための伝家の宝刀が数学という切れ味鋭いナイフだというわけです。
そもそも、数学を使って近代科学の理想的な世界像を創り上げた先駆者はニュートンです。ニュートンはガリレイの言葉を忠実になぞるように、自然を簡潔な方程式によって表現しました。この成果で、人間は未来の天体の位置をほぼ正確に予言できるようになりました。さらにニュートンは、それまでは神の恵みとしか捉えられていなかった「光」にも科学のメスを入れています。そして、アインシュタインは「光」を含む普遍的な法則を正確に記述するにはニュートンの方程式には欠陥があることに気付き、特殊相対性理論・一般相対性理論の他、光量子仮説の提起、光電効果の理論的解明などを精力的に行ってきました。アインシュタインは「ニュートンの方程式では宇宙を正確に記述したことにはならない」と言って批判しているのですが、このように見てくると、世界観・科学観という点ではニュートンとアインシュタインはまったく同じ地平に立っていることがわかります。
          
%E5%AE%87%E5%AE%99%E9%A0%85%CE%BB.gif

          
この数式は「アインシュタイン方程式」と呼ばれるているものですが、後に「宇宙項λ」が出たり入ったりすることはよく知られています。アインシュタインはこの数式を「世界がこんなにシンプルに記述できたことは何と美しい結果だろう」と自画自賛しています。実はニュートンも数式の美しさへのこだわりは相当だったと言われています。さらには、アインシュタインとの論争で名をはせたボーアやその理論を発展させたハイゼンベルクらの量子力学者も、思考や認識の基盤に置いているのは『確率』という数学の概念に他なりません。
つまり、アインシュタインとニュートンの2人に限らず、ボーアやハイゼンベルクなどの量子力学者たちも数学の信奉者という意味では同じ穴のムジナであり、究極の唯物論者ということになります。そして現代は、アインシュタインの成果を基盤にして、様々な宇宙論や素粒子論が飛び交う状況にありますが、なかなか収束に向かわないという意味では、一種の混迷という捉え方も可能です。そして、現代の混迷の最深部には、ガリレイ~ニュートン~アインシュタインという唯物論者の系譜、あるいは数学信奉者の系譜が深く根をはっており、その影響が科学を志す若者の99%に浸透しているのかもしれません。

★数学とは、人類が自然界を捉えるための最良の『言語』と言えるのか?
★遠い将来、人類は数学を超える新しい『言語』を創造し、もっと明瞭に自然界を記述し、未来を予測することができるようになるのか?
★自然界だけを切り離して思考することが当然のように理解されている今日の科学は、人間や社会を組み込んだ総合的な“認知学”への礎と成り得るのか?

こんな問題意識が芽生えてくる『アインシュタイン考』ですが、20世紀初頭のアインシュタインによって、宇宙観測や宇宙飛行、あるいはミクロ世界の解明への道が切り拓かれたのも事実です。ただ、近代科学が置かれている今日の状況を前にすると、むしろ人類5000年の文明批判・科学批判という視点を抜きにした考察には、何か大きな“忘れ物”が潜んでいるように感ぜずにはおれません。その点を常に念頭に置きながら、具体的なアインシュタインの成果とそれに至る道のり、さらには当時の時代背景などの分析を次回からはアップしていきたいと思います。
                    
                                      by 管理人 2013年 元旦

[1] [2] [3]