- 生物史から、自然の摂理を読み解く - http://www.seibutsushi.net/blog -

利己的遺伝子説と近代科学の陥穽

dokin.jpg
ドーキンス:画像出典はコチラ  [1]

前回のエントリーは、ドーキンスの主張にある「利己的な遺伝子」は現実には存在しない [2] ことがポイントでした (そもそもドーキンスが定義するような遺伝子は、想像の産物でしかない)

その後ブログメンバーより・・・ ドーキンスは、なんでそんなことを考え出したの? 🙄 」「 それでも利己的遺伝子説が有名になったのは、なんで? 🙄 」という疑問が寄せられました。
・・・今日はそのあたりもふまえて、さらに切開してみます

気になる続きはポチっと押してからどうぞ
ブログランキング・人気ブログランキングへ [3]
にほんブログ村 科学ブログへ [4]



■利己的遺伝子説と遺伝子中心主義
1960~70年代の生物学界では 自然選択が働く単位は何か?」「 生物がみせる利他的行動は、生存上不利なはずだが、どう理論づけるのか?」(自然選択の定義に照らせば、自然選択を受ける実体は常に利己的であるはず。)といった問いを巡って論争が行われていたとのこと。

それまでは、生物の利他的行動は種や群などグループの繁栄のためである、という考え方が一般的だったが、それに対して異を唱えたのが、ドーキンスの利己的遺伝子説を代表格とする「遺伝子中心視点」。遺伝子が進化適応上もっとも重要だとする主張は、インパクト をもって受け入れられ、生物学会の主流理論のひとつとなってゆく・・・という流れのようです。

その後、解析技術の進歩もあいまって「遺伝子ブーム」を形成してゆくわけですが、現在では、遺伝子のみに着目した生物進化説そのものに理論的限界 が指摘されています。「要素還元主義」的発想の限界とも言えます。
※例えば→遺伝子進化論の終焉 [5]  

また、最初の「自然選択が働く単位は何か?」「生物がみせる利他的行動は、生存上不利なはずだが、どう理論づけるのか?」という問い自体が???な感じもします。 🙄
生物の利他行動に対する懐疑or否定が出発点???

■利己的遺伝子の矛盾~現実にはありえない現象
ここで改めて、 るいネット「利己的な遺伝子」を切開する 2 [6] より引用します。

彼が対象にしているのは、既に無数の同類他者が存在していることを大前提にして、かつその中で彼が注目する遺伝子座の多数の変異遺伝子たちが、一切それ以上は変異を起こさないと仮定した上での(上述した様に、そんな状態は現実には存在しない、頭の中の幻想にすぎないが)、その後のその遺伝子座に存在する多数の変異遺伝子たちに働く淘汰現象だけだと云うことになる。

また、淘汰圧は個体→ゲノム→全遺伝子に対して働くのであって、ある特定の形質に関わる遺伝子群に対してのみ働くなどと云うことは、在り得ない。(例えば、ある種の鳥の尾の長さは、その鳥の筋力をはじめ全形質とのバランスの中で、決められている。)ところが彼は、ある特定の遺伝子座に存在する多数の変異遺伝子たちに働く淘汰現象しか、考えることができない。しかし、それは現実には殆ど在り得ない「淘汰現象」である。
tori.jpg
※画像出典はコチラ [7]

ドーキンスの仮定する遺伝子とその淘汰現象をムリヤリ説明すれば上記のようになるのですが・・・そんな状態は現実にはありません。
遺伝子に着目するならば上記投稿のように、「全遺伝子群(ゲノム)は共同的に作用する」「進化の源泉は全遺伝子群が変異する=同類他者をつくりだすこと」「淘汰圧は全遺伝子群に対して働く」と考えるべきでしょう。

■幻想世界のシミュレーションゲームに陥った

これでは、全くの幻想世界でのシミュレーションゲームに過ぎないではないか?
しかも、一切変異しないという誤った前提の下では(加えて、特定の遺伝子だけを単独で取り上げるという二重に誤った前提の下では)、いかに精緻なシミュレーションを繰り返しても、誤った答えしか出てこない。例えば、安定なESSなるものにしても、それで淘汰が終わる訳はないのであって、ESS間にも淘汰が働き、更にその上位階層にも淘汰が働く。しかも、現実にはその間に、全く予測不可能な新変異体が次々と登場する。もはや、シミュレーションは不可能である。

※ESS理論とは・・・進化的に安定な戦略。より良い戦略を持った遺伝子程生き残り易く、最も有利な戦略に安定すること。利己的行動をする個体が増えても集団に不利益が発生し、また利他的行動をする個体が増えても、自身の不利益による集団内での損耗が発生するため、利己的行動を取る個体と利他的行動を取る個体は安定するという・・・???

利己的遺伝子説が登場した背景としての「生物の利他行動に対する懐疑or否定」についてもそうですが、利己的・利他的という単純な価値軸を元に遺伝子や個体の生存をシミュレーションすること自体が短絡的or固定観念的なのだろうと思います。
生物は様々に変化する外圧に適応するために、戦略を組み変え変異していきます。ある特定の条件or価値判断でのシミュレーションは、非現実世界のゲームにしかならない。

■個人主義、そして新自由主義の精神
このような利己的遺伝子説の奥には、「個人主義」思想が深く根ざしているのだろうと思います。意識的か無意識かわかりませんが、集団や社会の否定(捨象)を潜在動機とし、個人主義の正当化に直結していることは明らかです。

そしてもうひとつ、当時の社会潮流(背景)も影響しているように思われます。
ドーキンスが利己的な遺伝子を発表したのは1976年ですが、ちょうど同じ年に新自由主義経済学の旗手ミルトン・フリードマンがノーベル経済学賞を受賞しています。
milton.jpg
※フリードマン:画像出典はコチラ [8]  

1970年以前は大恐慌の失敗を受けてケインジアン(公共投資も含めて政府が積極的に経済に介入する政策)が主流でした。それが、1970年代の国家財政悪化、オイルショックなどを契機に、ケインズ主義を否定し、全てを自由競争に任せるべきとする「新自由主義」が台頭しました。
政治的には、イギリスのサッチャー政権1979年~、アメリカのレーガン大統領1980年~、日本の中曽根政権1982年~と連なる流れです。(小泉竹中も同路線)
そして、現在の世界経済危機により、新自由主義が世界人類にもたらした大罪 は明らかにされつつあります。

「自由」「個人」「市場」「競争」の肯定と原理主義的な徹底・・・
ドーキンスの言説は、科学的知見というよりは、こうした時代の潮流が生み出したもののように思えます。

■固定的な概念装置を取り外して、生物史を勉強しよう
最後に再び、るいネット「利己的な遺伝子」を切開する [6] 2 より、重要なポイントを引用します。

進化の原理は、もっと単純である。もう一度、云おう。
可能な限り多様な変異体=同類他者が存在していること自体が淘汰や進化の源泉であり、従って、可能な限り多様な同類他者を作り出すことこそが淘汰や進化を生み出すのである。

そこでは、優性・劣性という概念も、利己的・利他的という概念も、生命の維持や進化を見る上では極めて一面的な概念装置でしかない。
あらかじめ、利己的・利他的という類の固定的な概念装置を措定してそこからのみ物事を見ること、及びそうして得られた認識群を、ドグマorイデオロギーという。
科学とは、その様な固定的な概念装置を疑い、壊し、絶えず創り直してゆく営為なのではないかと、私は思う。

●可能な限り多様な変異体=同類他者をつくりだすことが淘汰や進化を生み出す。
●生物はその始原から群れを形成することによって適応してきた。

(※参考 動物が群れを作るのはなんで? [9] 生物はいつから群れを作るようになったの? [10]
このように考えると、利己的・利他的といった価値軸を超えて、生命の摂理に近づくことができるのではないでしょうか
固定観念にとらわれた頭でいくら考えても物事の本質から遠ざかってゆく・・・逆に、虚心坦懐に対象に向き合えば、理は自ずから通ず・・・ ということなのかもしれません。

[11] [12] [13]