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収束と統合、可能性収束の論理5-「成長」という概念に代わる「適応」という概念

みなさん こんにちは
今日は、「収束と統合」シリーズ第 弾です
これまでのエントリーで、従来の進化論とは違った生物進化の姿が「収束と統合」という視点で見直すことで見えてきました
シリーズ 回までで、生物における「収束と統合」の意味が理解できたところで、
収束と統合の論理が現代社会を生きていくための羅針盤としてどのように働くのか見てみましょう
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画像はコチラ [1]よりお借りしました
近代日本は、60年代の高度経済成長、80年代のバブル経済を経験しました
しかしその後の不況、さらに昨年秋に世界的経済危機を迎えたことで
現代は、今までの通りにやっていてもうまくいかない…どうしていったらいいのか 😥
と、社会的にも精神的にもみんなが模索している時代と言っていいでしょう
そういった社会的精神的混乱は今まで使われていた言葉にも違和感として生じてきます
例えば「成長」という概念は
絶対的に良いことと思ってしまいがちです
しかし
「成長」という脅迫概念 [2]にあるように、「成長」することを期待されると、それを強制されていると感じて息苦しくなってしまう若者もいるのです
上記の例にあるように、今までは通用した近代的な価値観・倫理観は
現代では違和感のもととなり、今の社会的精神的混乱に対する答えを出せずにいます
近代的価値観・倫理観はすでに羅針盤としての機能を失ったといっても過言ではないでしょう 🙁
今日は、人間の成長や、社会の成長とは何なのか、意味があるのか、そんな迷いに生命原理から答えている事例を紹介したいと思います 😉
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るいネット [6]「成長」という概念に代わる「適応」という概念 [7] より

もし「成長」という言葉自体に独特の違和感を感じるのであれば、それに代って例えば「適応」という言葉を使ってみてはどうでしょう。
>成長することは意義深いことかもしれません。でも人生自体がどれほど意義深さを必要とするのか。死んでしまえば人はただの無です。そんな人生で真実がもしあるとすれば、それは人との交わりや自然に触れることなどによって得られる感動、ただそれだけのように僕は思うのです。
ただそれだけだと言うのは、私はちょっとおかしいと思うんです。
意義深いとか価値とか、そんな観念的な理屈以前に、環境に対して適応してゆくのは生命体として当然すぎるほど当然だからです。
実際、「自分らしく生きる」というその言葉さえ、脅迫観念となってしまいます。
その原理は、いかに言葉を飾ろうと、変わりません。

実現論1_1_01「イ.可能性への収束=統合」 [8]より
>生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。例えば本能も、その様な外圧適応態として形成され、積み重ねられてきたものである。また全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。また、外部世界が変化して適応できなくなってくると、新たな可能性(例えば、DNA塩基の組み替えの可能性)へと収束し、新たな可能性(新たな配列)の実現によって進化してゆく。
必要なのは、新たな可能性を実現してゆくこと。
あえて言うなら、「可能性に向かって変化し続けるだけ」となるのではないでしょうか。

 
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画像はコチラ [9]からお借りしました
どのように成長してゆくか、どのように生きてゆくべきか…と考えたとき
ついつい「自分が」という枠組みの中で混乱しがちです
また、私たちが日常使っている言葉群は、知らず知らずのうちに特定の価値観・倫理観に縛られてしまっているものが少なくありません
生物史から学ぶ「自然の摂理」はもっとシンプルです
「外圧に対して適応すべく、新たな可能性を実現してゆくこと」
そのために「可能性に向かって変化し続けること」(可能性収束)こそが生きてゆくことの本質であり
それがあえて言うなら、成長してゆくことでもある…

これから、社会が進むべき方向性を考えるとき、生物の歴史は確かな導きの糸となってくれるように思います。
【参考】
もっと、生物史を貫く「自然の摂理」について深く知りたい方は、ぜひ下記の投稿もご覧下さい 😉
超国家・超市場論2 闘争(能力)適応 と 共生(取引)適応 [10]
収束と統合とは生きているという状態そのもの [11]
対象への同化について [12]

[13] [14] [15]