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ドーキンスの目的は神の否定か、それとも神の存在証明なのか?

Posted By yama3 On 2007年8月18日 @ 3:50 PM In 未分類 | 5 Comments

進化の問題を考える時に、常に私たちの思考を妨げているのが、進化=ランダムな突然変位+自然淘汰という発想でしょう。この発想の延長に「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」というドーキンス流の極端なまでの生物=機械説が登場することになります。
その背景には、一神教の支配する欧米における創造論の根強さへの反発があるようです。
以下は近著『神は妄想である──宗教との決別』におけるドーキンスのことばである。 [1]
>私は 9 才の時にこの世界には多くの異なった宗教があり、それらが全て正しいなんてことは有り得ないことに気がつき、疑いを持ち始めました。私は 12 才ぐらいで一旦宗教へと戻り、最終的には 15,6 で宗教の元を去りました。
>私はあらゆるものが存在するその理由を知りたかったのです。私は生物に対して特に強く興味を持ちました。そして私がダーウィンの学説に出会ったとき — それはくらくらするほどエレガントで、そしてパワフルで — 私はあらゆる種類の超自然的な力を説明に使う必要はないとわかりました。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=150930
確かに別に生命の原理を説明するのに「超自然的な力」を用いる必要はないだろう。しかし、膜の誕生など生物史を紐解いていけばいくほど、生命はかなり初期から高度な認識機能を持ち合わせており、まさに生命は「自ら考えて振舞っている」と思わせられる。これはあまねく生命が持つ「自己組織化」する「力ないし意志」といっていいだろう。しかし主流進化論は、あまねく存在する「力ないし意志」を否定し、生命機械論のみで説明しようとしてきたが、それは生命の「意志」を全く無視した「運命論」に他ならず、それは逆説的に「神の存在証明」となるのではないか、との疑問が生ずる。


以下るいネット「進化論は神の証明か」より [2]
>主流進化論によれば、進化とは、確率的にいえば限りなくゼロに近い(小数点以下六百万桁)有利な突然変異と、自然選択によってのみ生じたのだとされる。この進化モデルは、環境に対する生物自身の能動的(主体的)な適応(本能)を一切排す点で運命論的である。そして、「自然選択(自然淘汰)」を「自分ではどうすることもできない(自然)環境※」に、「有利な突然変異」を「奇跡的に生ずる変身(変態)」と置き換えると、これは古代の宗教思想そのものではないのか、という疑問が生まれる。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=48975 
いやはや、創造論=超自然的な力を否定するあまり、「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」という生物機械論=新しい運命論が出来上がったというのはなんとも皮肉な話であるが、そこには、精霊信仰→縄文思考の流れを引き継ぐ私たちには、想像もできない、西洋人の思考パラダイムの限界性があるのであろう。
以下、そのことを早くから指摘してきた牧野尚彦先生の著作「ダーウィンよさようなら」青土社1977年刊から引用する。

>全ての進化的変異がまったく偶然に無方向的に起こるということでは、大進化のどんなステップでさえ、説明は深刻な矛盾と、それをとりつくろうご都合主義の作話に満ちたものにならざるを得ない。それはどうみても科学の営みとはいえない。しかしながら変異のランダム性という教義に異議を唱えることは、ただちに超自然の神秘力を当てにする生気論に与するものとみなされ、問答無用で排撃されてしまう。じつは、これこそが進化論主流派の最大の思想的欠陥である。
>ドーキンスはこう述べている。「複雑なものは統計的に起こりにくい。ものごとが統計的に起こりにくいほど、単なる偶然では起こらないと我々は信ずる。表面的に考えると、偶然の反対とは‘知能ある計画者’である。」「しかしダーウィンは盲目の物理的な力が意図ある計画と同じことを遂行できることを証明した」
>なぜ、個体や細胞や高分子が‘意図ある計画者’ではありえないのか。なぜそれらに自律性があってはいけないのか。科学が神の手の創造を排除したついでに、生命物質系からあらゆる主体性を否定し去ったのは、どのような根拠に基づくのか。
>私がそこにみるのは、神の分身として‘考える’ことができる人間だけを至上の存在として特別視し、その裏返しに、生物や物質的自然を見下す自己中心主義の幻影である。彼らは人間には神の属性の一つを認めておきながら、他のあらゆる生命物質系からそれを追放しようと狂奔している。人間だってその生命物質系の一つにすぎないというのに。
>現代の進化論が救いがたい変調に陥ってしまったのは、生命体が明らかに担っている目的性を‘仮相’とみなした重大な過ちのせいである。どこからみても生命体が目的性をもつようにみえるのはそれを‘実相’として内在させているからにほかならず、ならば、その物理化学的な基盤はなにか、といった発想が(必要である)
>私は近年のDNA科学やタンパク質科学が明らかにしつつある、生体高分子の驚くべき相互認識能と自己組織化能に着目し、その中にこそ生命体の‘考える’素因の源流を求められるのではないかと思う。私たちはそれを探求してみようではないか。

牧野氏は兵庫県立尼崎病院の名誉院長さんで、生物学という点では在野の研究者ということになるだろう。しかし、このような在野の研究者でないと、根本的な批判ができないこと、そしてその間にもドーキンス流の自己中心主義的な思想が普通の人々の生命理解を蝕んでいっていることを、私は憂慮する。この主流進化論による共認支配は、学会だけに限らず、インターネット世界にも広く存する。BJはそうした思考の硬直に風穴をあけるべくがんばっていきたいと思います。


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[1] 以下は近著『神は妄想である──宗教との決別』におけるドーキンスのことばである。: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=150930

[2] 以下るいネット「進化論は神の証明か」より: mailto:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=48975 

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