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『生命と場所』より…生命観

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知人に勧められた本=『生命と場所』(NTT出版:清水博著 1992)の序文に、とても共感したので、紹介したい。
004Pより
>新しい時代はまだ完全にその姿をあらわしていないが、地球規模の大きな変革期の今ほど、変化をリードする哲学や思想が必要とされるときはないであろう。その哲学や思想が、生命、さらにいえば「生きているシステム」の深い把握を基盤にして成立するものであることには疑問の余地がない。考えてもみよう。われわれの生命ばかりでなく、そのなかでわれわれの生命を存続させている環境の生命が、かつてこのような危機に直面したことはなかった。この危機の深刻さは、単に量的なものだけでなく、生命の多様性の消滅という不可逆な変化からきている。この危機はまちがいなく、われわれ人間の生きているシステムに関する根本的な誤解と、その上に立った欲望に発している
>近代がデカルトの「われ惟う故にわれあり」から始まったとすれば、新しい時代は、けっして閉じたものではない人間の生命を深くとらえ、己の姿を再発見することから出発するであろう。
005Pより
新しい時代の人間像は自他非分離な自己把握によるものでなければならないのだ。その意味では、われわれはまだ人間を発見していないが、同様にさまざまな組織、社会、国家、国際社会などの人間のシステムにも、自他非分離の形で生きていけるシステムに変貌させることを考えていかなければ、環境との調和はありえない。そのためにはまず生きているシステムの本質とは何かを知ることであろう。
さらに、312Pより
>精緻につくられ、理論として完結しているかのように見える近代科学の理論も、実際に適用してみようと思うとさまざまな穴があいているというのが、このごろの私の感慨である。ことに観察や問題の対象と、観察者や問題の回答者のあいだは、ほんとうは分けることができないのに、近代科学の理論では、これを分離可能なものとしてとりあつかっている。その影響を考えていくことが、近代の諸矛盾をのりこえる科学への入り口となる。
引用が長くなってしまったが、この文章を読むと、既存の思想体系としての「科学」は一つのパラダイムに過ぎず、そのパラダイムは行き詰まりを迎えているのだということにあらためて気付かされる。
既存のパラダイムにしがみつき権威を維持しようとする学者と、パラダイム転換の必要を強く感じる学者や人々の間の認識の差を埋めるのは大変だ。現在の科学にしても、旧い時代のパラダイムや現在の学界の権威に基づく認識バイアスがかかった結果存在している。旧いパラダイムから新しいパラダイムへの転換期として現在の「科学」を俯瞰する視点も重要かもしれない。
デカルト以来の“近代思想”の影響を色濃く受けた、“人間”および“観察主体”(自我)に絶対的価値を置く近代科学から、対象世界と同化した「自他非分離」の新しい世界の捉え方へと脱皮しない限り、「科学」は人類と世界を滅亡に導く道具になってしまう、ということを筆者の清水氏は危惧しているのではないだろうか。
人類も生物の一種(生命の原理は人類にも適用される)であり、しかも“近代自我”という人間が勝手に作り出した幻想が、対象世界を客観的に把握などできるはずがないということはもはや自明であり、この旧いパラダイムから抜け出した新しい対象世界把握・生命把握が必要だと思う。しかし、21世紀になって数年経つ今になっても、そういう可能性のありそうな思想や哲学や科学が一向に現れてこないのはなぜなのだろうか。
近代思想(人間第一主義や主体としての自我の肯定)という非科学的な(まるで根拠の無い)固定観念の縛りは、「科学」に思ったよりも深刻な影響を与えているのかもしれない。
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